親ばか日誌: 誕生日翌日の娘からの反応

 お礼のメールが来ないと思っていたら、翌々日になって携帯にメールが届いた。7月11日に娘に送った誕生日の花束に対するお礼の返信である。かなり忙しいとみえて、「事前に受け取りが難しいかもしれない」と当日の朝にメールがあった。それでも、12日には花束を無事に受け取れたようだ。



 「失礼な」で始まっている娘のメールは、次のようなたわいのないものだった。花を贈られた娘が、父親の感想文(7月11日の本ブログ:約300人が翌日までに読んでくれている)に対して綴ったの文である。
 
  「読んだよ。
   おばさん化とは失礼なw
   嘆いているのは、灰汁(あく)の強い個性的な上司と同僚との付き合い方かなw
   今時の若い男の子っていうより、ゆとり世代の女の子のんが我が強くて気が利かないねぇ
   (原文通り)」

 そんなメールだった。「わけのわからない」男性上司と、「使えない」年下の女子との付き合い方に苦労している様子がほの見える内容だった。
 この文書を娘がチェックしているとは思えないが(前回は、わたしから「読め!」と指示したから呼んでくれたのだが)、彼女の悩み事は、長男でも次男でも長女のお前さんでも基本は同じだろう。悩みがあるから成長するのだ。困難を感じなくなったら人間は終わり。そんな風に思えるようになれば、人間は一人前。それまでは、まだ遠い道のりを歩んでいくのだろう。
 父親は、そうした子供たちの生き方に、手を差し伸べてあげることはできない。困ったことがあったときに、たとえば、一昨年の交通事故の時のように、救急車で京都の救急病院に運び込まれたとき、わたしたちが緊急出動するくらいのものだ。それ以外は、じっと子供たちの困難を見て見ぬふりをふりをしている。

 世間の親父やおふくろたちも、たぶんそうなのだろう。子供たちは、きびしい経験をすることでしか成長ができないものなのだから。娘が指摘しているように、「ゆとり世代の女の子」は、わたしの周りにも生息しているものなのだろうか?
 少なくとも、法政大学の小川ゼミには、そんな子はいないと信じたいものですだが。そういえば、ここ数年のゼミ生(とくに、女子生徒)の中に、何人かそうした特性を持った子がいたような気もする。途中で消えてみたり、突如ゼミに来なくなったり。ゆとり世代か。たしかに、文部科学省と日教組の大犯罪だったなあ。いまさら取り返しがつかないですが。
 人間の生き方に対して、極言の厳しさを要求しない(甘やかしをよしとする)特殊感覚のグループが冒した戦後最大の犯罪でしたね。教育面で、戦後の一時期の大後退を取り返すことができるかどうか?そう考えると、とても暗い気持ちになってしまいます。