平石教授の連載: 第5回「ネットバブル前夜。原宿コーポ別館」

 起業家として立ちたい人たちにとって、今回の挿話(海外VCからの投資オファー)は非常に参考になる内容ではないだろうか?大学院の学生たちには、ぜひとも読んでもらいたい。平石さんの知識経験は、わたしにとっても必要になるかもしれない。

第5回「ネットバブル前夜。原宿コーポ別館」
March 28 , 2013

ネットバブル前夜。

 僕はあの時の「目の挨拶」が、ウェブクルーの上場に伴う「キャピタルゲイン」に繋がったと思っている。
  1998年の秋。僕は名古屋から在来線で約1時間ほど電車に揺られたところにある「春日井」という駅に降り立った。改札を出ると、白いウィンドブレーカーを着た渡邊さんが、駅前のロータリーに立っていた。そう、渡邊さんは自動車保険の見積もり比較サイト「保険スクエアbang!」などで知られるウェブクルー(東証マザーズ)の創業者だ。

  「来てくれましたね!」(渡邊さん)

 「来ましたよ!」

  僕たちは「目」で挨拶をした。福島県郡山市出身の僕にはよく分かるが、地方都市から東京に行くのはそれほどでもないが、東京の人が地方都市に行くのは、精神的にかなり距離がある。それを渡邊さんはよく分かっていた。わざわざ東京から春日井まで来てくれたのは、僕が初めてだったらしい。

  当時の渡邊さんは、愛知県春日井市のマンションの一室で「ペガ・ジャパン」という小さなベンチャーを経営していた。ペガ・ジャパンは「CCS(Cyber Chip System)」という擬似キャッシュを使ったインターネット上のモールを運営しており、雑誌や新聞等にしばしば取り上げられていた。

  渡邊さんと知り合ったのは「原宿コーポ別館805号室」。僕が細々と経営していた会社のオフィスに、僕の友人が彼を連れてきたことがきっかけだった。当時の渡邊さんは、毎月と言っていいほど足繁く東京に出てきていたが、当然、立派なホテルに泊まる資金的余裕はなく、時々、僕の自宅に泊まっていた。そして「原宿コーポ別館805号室」は事実上、彼の東京オフィスになっていた。春日井のオフィスを訪ねると、渡邊さんは、僕にこう言った。

  「平石さん。渡邊に喧嘩を売るつもりで、何でも言って下さい」。

  そう言って見せられたものは「保険スクエアbang!」という、自動車保険の見積りを比較するサービスを提供するWebサイトだった。ローンチしていたか、直前だったかは憶えていないが、僕はそのWebサイトを約30分ぐらいブラウズし、渡邊さんに率直なコメントを伝えたところ、彼の表情がどんどんシリアスに変わっていくのが見て取れた。

  僕がひと通りコメントすると、「平石さん、目から鱗です!是非、一緒にやりましょう!」となった。それからの僕は、定期的に春日井に足を運び、「春日井サミット(名古屋サミットの時もあった)」なるものを行い、渡邊さんたちと一緒に「保険スクエアbang!」を立ちあげていった。

  当時の僕は、渡邊さん達と一緒に「保険スクエアbang!」を立ちあげつつ、もうひとつ、ネットビジネスを立ちあげていた。それが、2000年にインタースコープとなる、インターネットリサーチだった。共同創業者の山川さんは元々エンジニアだったこともあり、HTMLや簡単なプログラムを書いたりすることはできたが、インターネットリサーチを行う本格的なアプリケーションを開発するには、誰か優秀なエンジニアを探す必要があった。そこで僕は、渡邊さんに相談をし、彼の知り合いのエンジニアを紹介してもらい、「保険スクエアbang!」と「インタースコープ」をほぼ同時並行で立ちあげていった。

  1998年。まさにネットバブル前夜だった。

シリコンバレーとの出会い

 そんなことで僕は、本格的にネットビジネスを手掛けるようになっていったのだが、僕の人生に大きな「変化(インパクト)」をもたらした出来事が2つあった。ひとつは、「エコノミスト」という毎日新聞社が発行する業界誌に掲載されたこと。もうひとつは、「シリコンバレーのVC(ベンチャーキャピタル)」との出会いである。

  当時の東京は「ビットバレー」なるムーブメントのもとに無数のネットベンチャーが創業し、さながら群雄割拠の様相を呈していたが、エコノミストという業界誌に「ビットバレー勝ち組100社」なる特集が組まれ、そこに、僕が経営していた会社が紹介された。僕はその事実を知らなかったのだが、急に証券会社や株券印刷の会社等が頻繁に飛び込みで来られるようになり、不思議に思った僕は「弊社を何でお知りになりましたか?」と訊いて、初めてその事実を知った。

  あの記事は、僕の人生を大きく変えたと言っても過言ではない。1998年10月にローンチした「保険スクエアbang!」は翌年の1月、日経マルチメディア(当時の名称)という雑誌が主催する「ECグランプリ」なるイベントで、部門賞を受賞した。それを機に「保険スクエアbang!」は、だんだんを知名度を増していった。ボストン・コンサルティング・グループ(BCG)の畔柳さんという方から連絡があり、渡邊さんと僕とで会ったのはその頃だった。

  彼は金融関係のプロジェクトを担当しており、破壊的イノベーションの事例研究として僕らにアプローチしてきたのだが、彼は結局、その数カ月後、ミイラ取りがミイラになるが如く、なんとBCGを辞め、後に設立するウェブクルーに合流した。そんなことで、BCGとの接点が出来ていた僕のところに、今度は別件で、畔柳さんから連絡があった。H&Q Asia Pacific というVCがあり、当時の為替レートで約700億円の資金を調達し、日本を含むアジアでの投資活動をスタートさせようとしていたが、日本のベンチャー発掘をBCGに頼んでいたようだった。

  畔柳さんからの電話は「VCから出資を受ける気がありますか?」というものだったが、当時の僕は、他人が自分の会社の株主になるなんて「そんな恐ろしい話はない!」としか思っていなかった。でも、シリコンバレーのVCと聞いて、一度、会ってみたいと思い、「あります!」と返事をした。そんなことで、彼の上司で後にインデックスの社長に転じた椿さん(現パンアジア・パートナーズ代表パートナー)を訪ねたところ、 H&Q Asia Pacific が日本で描いているビジネスモデルがあり、それを具現化できそうなベンチャー企業を探しているという話を聞かされた。その受け皿として、僕らが始めていたインターネットリサーチが面白そうだということで、次は、H&Q Asia Pacific NO.2 だったジョセフ・キムという人間に会うことになった。

  すると、ある日、ジョセフ・キムがひとりで、それも約束の時間の1時間も前に、僕のオフィスに現れた。BCGの椿さん、畔柳さんが彼を連れてくるのだとばかり思っていた僕は少々びっくりしたが、彼はそんな僕にはお構いないしに「If I were Jeff Bezos(アマゾン創業者), what would you do for me ?」と言って、ディスカッションがスタートした。約2時間ぐらい議論をしただろうか? 彼は「お前は、なかなか面白いヤツだ。クリスマス前にもう一度、会おう!」となった。

  日本のVCはおろか、シリコンバレーのVCのことなど何も知らなかった僕は急遽、New York に駐在していた商社の友人に頼んで、彼らのことを調査してもらった。すると彼らは、Apple, Adobe, Texas Instrument 等に投資し、大きなキャピタルゲインを出した著名なVCであり、700億円ものファンドを組成していることが分かった。クリスマス前のアポに際して「丸腰」で行っても仕方ないと思った僕は、「この10個の質問に答えたら、僕らのビジネスプランをプレゼンしてもいい!」ということで、彼らの日本市場参入に際する質問を用意し、強気な姿勢で臨んだ。

  そんなことを言ってくる日本人はいなかったのだろう。彼は少々動揺した表情を見せながら、僕の質問に答えてくれた。年が明けて2月初旬、僕たちはBCGのオフィスで、ジョセフ・キム達にプレゼンをした。プレゼンが終わると「Very interesting. We’d like to invest!」という言葉が返ってきた。「やった!」と思って、その後の質疑応答をしていると、キムが隣の人とひそひそ話を始め、僕は「何か変なことを言ったかな?」と思っていたところ、「ちょっと確認したいことがある。調達金額は3億円か?」と訊いてきた。「そうだ」と答えると「それでは投資できない。30億円なら投資する」と言い、「その理由を今から説明する」となった。彼の話はこうだった。

  「成功するためには、3つのコーナーを抜ける必要がある。第1コーナーは、良い商品、サービス、優れた技術を持っていること。君たちは、それはクリアしている。君たちのビジネスが市場を形成していくと必ず、大企業が参入してくる。その時、第2コーナーを抜けるためには、先行者メリットを生かす必要がある。そのためには、とにかくシェアを獲ること。ブランドを構築すること。つまり、資金が必要だ。第3コーナーでは、グローバルな戦いが待っている。でも、そこまでは求めない。しかし、我々の立場としては、第2コーナーは抜けてもらわないと困る」。

  たしかに、ご尤もな話である。そして「資金調達額を30億円にし、IPOの目標時期を18~24ヶ月後に変更するなら、投資を検討する」と続けた。要するに、シリコンバレー・エクスプレスである。僕は、なんとか巨人のテスト生に受かった人間が、いきなりドジャーズ(メジャーリーグ)でプレーしろと言われても、そりゃ無理だろうと思った。当時のメンバーのひとりは「3億や5億なら、ほかのVCに行けば?俺らはそんなディールには興味ない!という意味で、体よく断られたのでは?」と言っていた。

  これは僕の推測に過ぎないが、アジア・パシフィックで投資するために700億円もの資金を調達していた彼らは、タイの通貨危機に端を発したアジア金融危機で、東南アジアでの投資ができなくなり、ネットバブルの日本に乗り込んできたが、3億、5億という単位で投資していたのでは、ファンドの満期に間に合わないし、そもそも、そんなたくさんの投資先は見つからないということで、10億円単位で投資する必要があったのではないか?と判断した。

  そもそも実力的にも彼らの要求に応えることは出来ないと思った僕は、H&Q Asia Pacific とのディールは諦め、日本のVCから資金調達をすることにした。他人の資金など怖くて仕方なかった僕だったが、今にして思うと、あの日を境に、ビジネスに対する考え方が変わった。

  結果として僕たちは、2000年3月9日にインタースコープを設立し、友人知人から計5,450万円を調達。そして、その年の8月、ジャフコ、日本アジア投資、新光ファイナンス(当時)、住銀インベストメント(当時)から計1億500万円を調達し、ゲームをスタートさせた。「原宿コーポ別館805号室」は、今にして思うと、僕の人生にとって「破壊的イノベーション」のスタートだった。

【修正】
 ・2段落目「・・・比較見積もりサイト」→「・・・見積もり比較サイト」
 ・6段目「岐阜県春日井市のマンション・・・」→「愛知県春日井市のマンション・・・」
 ・11段落目のプログラマーをエンジニアに差し替えました。
 ・4段落目「・・・そこらのVC」→「・・・ほかのVC」
(2013-03-28 18:22)