午前11時、角館発阿仁合行きの下り電車を、戸沢駅で待っている。戸沢駅は秋田内陸線の無人駅だ。乗客はたぶんわたしひとり。箱型の電車は、11時44分に高台にあるホームに入ってくる。
待合室は4畳半ほどのスペースしかない。部屋の長椅子は木造で、テーブルは木の切り株できている。手づくりだか、こじんまりときれいに仕上がっている。
この駅までは、昨夜、一緒に蛍を見たカメラマンの若林さんと、番人小屋の山田雄太郎さんに送ってもらった。二日酔いを覚ますために、打当(うとう)温泉マタギの湯で朝風呂を浴びた。その帰りに、突然に思い付いて、内陸鉄道に乗りたくなったからだ。
森のテラスの最寄り駅までは、12駅ある。秋田県内で一番長い、12段トンネルをくぐりたかった。ふたりに無理を言って、比立内トンネルから先まで峠越えをしてもらった。
戸沢までは5分もあればだとりつくと思っていた。なんのなんの、東京に車で立たなければならないふたりに、30分ほど時間を浪費させてしまった。
高台の駅舎ホームからは、戸沢部落が一望できる。初夏の候、山も田んぼもみずみずしい。この風景の中で、ひと夏を過ごしたことを思い出していた。
母親を武石京子さん宅に連れていったのは、七夕の日。一昨日のことだ。
夕方からは、森のテラスが主催する「蛍の夕べ」に加わった。何十年かぶりで、天の川と蛍が乱舞するのを母親と一緒に見た。
ワカばあさんは、今年で84歳。番人小屋の「蚕棚」に一晩泊まって、実家(能代)に帰った母親から電話があった。
「あ~、たのしがったね。こどものころにもどったきもぢになったけ」と弾んだ声。
母はあまり感情を表面には出さないタイプの人間である。それが、弟の車で能代に帰ってからすぐにわたしの携帯に電話をくれた。めずらしいことだ。蛍の夕べが、よはど楽しかったとみえる。
電車が来た。いまから全長5KMの12段トンネルをくぐる。