新しいアイデアや着想を得るタイミングと場所、二つのタイプ

 先週のカインズ土屋社長との対談のこぼれ話である。フリードマン社の会議室で対談が終わって、「おなかも空いたから、3人で食事にでも行きますか」となった。席を立とうとしたとき、千田編集長と土屋さんとの共通の趣味であるマラソンの話題になった。



 「先生、マラソンを走っているときに、何を考えているのですか?」とは、頻繁に聞かれる質問である。「練習の時は、たいがい、ふたつくらいの課題を持って走りに出てますよ」とわたしは答えるようにしている。事実、そうである。
 30~40分の短い走りならば、そのときに抱えている課題をひとつだけをもって。1時間以上になると、30分あたり1件ずつの課題を抱えて走る。2時間走にでもなれば、3つくらいの案件を持って走りはじめる。前日から持ち越しているとか、半日ほどは決断ができないままに、ペンディングになっている課題を持って走り始めることがほとんどである。
 30分も走れば、結論は天から自然に落ちてくる。あるいは、走っているのを見てくれている神様が、適当な答えをわが脳みそに送りこんでくれる。モールス信号のように、ト、ツー、ト・ト、ツー。信号波は自然である。決して閃くのではない。ある種の伝言の形である。

 だから、思いっきり革新的なアイデアは、走っているときには思い浮かばない。天から降ってくるのは、常識の範囲での妥当な回答である。わたしにとって走るとは、物事を整理する時間である。
 思いもつかないようなアイデアは、人と話しているときにやってくる。あるいは、本を読んでいるときに、思いもかけないような着想に出会うことがある。ひとの意見(理論解説)や事例を読んでいるタイミングが多い。
 だからではないが、本を読まなくなると、斬新なアイデアは枯渇する。ネット検索や机のPCに向かっているときは、碌なアイデアは浮かばない。

 ところが、土屋社長は、わたしたちとはちがう回路をもっているようだ。走っているときに(漠然としているときに)、アイデアがふつふつと湧いてくるのだそうだ。
 その前後の心理的、肉体的な状態を土屋さんにたずねてみた。すると、わたしや千田さんとは、どうやら違った状態に置かれているらしい。走り始めるときには、何も考えないのだそうだ。わたしたちは、多くの雑念を持って走り始める。
 千田編集長やわたしは、締切りが差し迫っている記事の内容や、研究論文をどのような構成にしようかと考えて走る。土屋さんは、対照的に、走る場所に自分の課題を持ち込まないのだろう。この点を確認してはいないが、土屋社長は無心の状態で走っているにちがいない。
 周囲の変化する風景(環境)を眺めながら、頭をからっぽにしていると、アイデアがわき出てくる。たぶんそうなのだ。自分が置かれた環境を変えることが、質の高い着想を得るポイントになるらしい。

 こうした議論をしているときに、そういえば、わたしにもそんな瞬間があることに気がついた。
 先月(1月23日~)、フランスのデザイン展示会「メゾンエオブジェ」に行っていたときのことだ。土屋社長も、偶然に、その前日(22日)にパリに滞在していたことが、対談の時に判明していた。
 毎年1月は、修士論文の指導や大学院の入試などがある。わたしは、いまは大学院の校長である。海外に出ては、いろいろと支障がある時期なのだ。にも拘わらず、この10年間、いつも冬場のIPM(エッセン)やメゾン(パリ)に行くことを年中行事にしてきた。
 定点観測という実利的な側面はある。しかし、本当のところは、国内で凝り固まっている考え方をリフレッシュ(蘇生)するためである。自分が置かれてい環境(目に入ってくる風景)を変えないと、新しい着想が生まれてこない。それを意識しているからだ。
 新しいアイデアは、いつもとちがう場所に置くことで得られる。そのことを、わたしは経験的に知っている。そのため、海外には「PCを持たずに」渡航する。いつもとは違う環境の中に身を置くときは、余計な情報ツールは邪魔になる。意図して、「河岸を変える」のである。そうした強制がないと、いつも平凡な毎日を送ることになる。接触する環境を変えないと、自分の脳みそも変われない。

 この寒い時期に、それも毎朝、氷点下5~10度になる欧州の土地に、毎年行く気持ちを絶たずにいる。その頑張り(踏ん張り?)があるうちは、人間的な成長が保証されるということなのだろう。海外取材や渡航調査が面倒くさくなってきたら、わたしの研究者生命は終わりである。
 それと同じことは、経営者との対談や現場取材についても言えそうだ。話す相手を変え、居場所を変えて、ぐるぐる回遊魚のように動き回っている。そうしたことができるうちは大丈夫である。新しいアイデアが生まれる瞬間は、意外にも、広い意味での意識的な環境の変化にありそうなのだ。
 アルキメデスが比重の原理を発見したときのように、わたしの場合は、お風呂の中では良いアイデアが浮かびそうにない。物書きであるわたしは、一人では革新的な着想が生み出せないタイプなのかもしれない。
 千田編集長も同じことを言っていた。だから、同じ類の人間なのだろう。対照的に、経営者である土屋社長は、事業ネタの素材やその利用のタイミング、身体に対する負荷の掛け方が、われわれとは違っているのだろう。
 もうすこし、この点は詰めて考えてみたい気がする。