1月の欧州ツアー(21日~)で、レストランで出される食事に対して、これまでにない違和感を覚えた。強行軍ゆえの体調不良か、年齢的な衰えが原因だと思っていた。帰国してから日本食を食べてみてわかったことは、違和感の正体が、食文化のちがいに由来していたことに気づいた。
欧州の旅行先で食べていた洋食のラインナップは、超一流とはいわないまでも、グレードの高いメニューであった。ふつうの観光客ならば、それなりに感激する内容の食事だったはずである。
ところが、とくにドイツとポーランドの料理は、メニューが単調だった。ソーセージかフライ(ピカタかカツレツの類)に、ジャガイモあるいはザワークラウトの付け合せ。それ以外は、スモークサーモンかコッド(タラ)のフライで、お魚が交る程度である。
料理の味付けも、塩と胡椒が基本である。マスタードやドレッシングがつけば、上等なものだといえる。店内の装飾も、ドイツやポーランドでは、旅行者受けしそうな雰囲気が満載で、とりたてて問題はない。可もなく不可もない、標準的な料理である。
ポーランド産のワインやドイツの地ビールなど、珍しいプレートを組み合わせても、20年ほど前にヨーロッパで感じた感激がなくなっていた。不思議な感覚だった。
ある仮説が頭をよぎった。和食と洋食のちがいについてである。欧米人にとっての食事とは、栄養(栄養価)=タンパク質(アミノ酸)+炭水化物(エネルギー源)+ミネラル分+ビタミン類の合成物質なのではないのか。つまり、欧米人は、料理を食材という構成部品の足し算として考えているのでは? 基本的に、欧米は食事に関しても分解主義なのである。
それとは対照的に、アジアの人々、とくに日本人にとっては、食べるという行為は、からだに必要な炭水化物やたんぱく質を摂取すること以上のことを意味している。わたしたちには、「料理を味わう」という表現がある。食べることは、自分の体に必要な新鮮な食材を取り込むプロセスで、自然と会話を交わす、あるいは自然と交流をすることを意味している。
われわれ日本人にとって、「食」は繊細な儀式である。季節の移ろいや自然の変化を感じとる体験であり、自然と人間との間で交わされるコミュニケーションである。そもそも、アジア人は食事をホリスティックにとらえているらしいのだ。
ヨーロッパでも、一流のシェフは、このことがわかっている。フランス人の花道家で、有機食材をふんだんに使うことで有名な料理人がいる。パリ郊外で自給自足の生活をしている、カール・フーシュである。英国人や米国人でも、自然派の料理人たちは、調理法がかなり日本的である。
食べるという行為は、大地から流れ落ちてくる清流や、燦々と降り注ぐ太陽の恵みを堪能することである。炭水化物やたんぱく質など、栄養価は結果としてついて来るものなのだ。
わたしたちが日常的に食べている和食は、だから、なるべくならば食材を加工しない。味付けもシンプルである。素材の姿形や色彩を、自然なままで鑑賞してもらう。和食は、目で見て素材の良さを感じてもらう芸術作品である。
旅行中に感じた違和感の本質は、洋食が見て楽しくなかったからなのだと納得した。