夏季集中授業のために、静岡サテライトキャンパスに来ている。わたしの8コマ分は、本日が最終になる。明日からは、嶋口先生が4コマ分を担当する。今朝は4キロだけ、駿府公園の周りを走った。走りながら、夏休みに過ごした信州小諸の滞在を思い出していた。
中棚荘滞在日記(総集編): 回顧編=反すう編
夏の間しばらく、信州小諸にある「中棚荘」という日本旅館に逗留していた。元大学院生の紹介である。長期滞在の宿を、さすがに電話一本で決めるのはリスクが大きいと思ったので、7月中旬に下見に出かけることにした。
小諸の町は、標高2000メートルの浅間山や高峰高原に囲まれた盆地にある。田沢湖マラソン(9月)の練習に適した高地トレーニングの場所でもある。
朝夕の食事が工夫されているのは、一泊してすぐに分かった。長い距離を練習で走った後に、疲れた体が休められる泉質の良いお風呂がある。大好きな硫黄泉である。玄関では、ヤギやカメが宿泊客を出迎えてくれる。避暑地としての環境は抜群である。といって、宿泊料金はそれほど高いわけではない。
楽天トラベルやじゃらんの日本旅館のランキングでは、食事や接客サービスのスコアが、4.5点以上である。通常の旅館でも、平均点で4点以上の宿はかなり優れた施設である。別棟は大正時代に建てられた有形文化財で、113年前の建立である。
建物がやや古いことと一部の部屋にトイレが付いていないことで、くちこみサイトでは設備面の評価がややきびしく出ていた。しかし、それは「秘湯の条件」でもある。わたしはまったく気にならない。
その場で宿泊する部屋まで決めてしまった。西側の角部屋で、中棚鉱泉の開業に貢献した詩人の島崎藤村に因んだ「藤村」である。しかし、即座に決断したのには、別の理由があった。それは、古き良き日本旅館が持っている特質が、この中棚荘の玄関や廊下などに、実にさりげなく配置されていたからである。花と緑を上手に使った小粋な宿なのである。
わたしは滞在中、毎朝ロビーで約30分間、ネットに接続しながらコーヒーを飲んでいた。3日目以降は、フロントに声をかけなくとも、ミルで挽かれたサイフォンコーヒーが、椅子に腰かけてから5分後には、黙っていてもすっと目の前に出てきた。
カップのソーサーには、女将さんが庭から摘んできた野の花が添えられている。短くカットされた孔雀草や小菊である。庭に自生している緑の葉と3点セットになっていた。小さなミルクカップが、花瓶の役割を果たしている。
コーヒーを飲みながら、樹齢100年は超えていると思われる大きな樹木の窓越しに、千曲川が静かに蛇行している様子をそのロビーから眺めることができる。
宿の若旦那さんは、趣味でワイン用のブドウを栽培している。原料のシャルドネ種は自家で仕込むほどの量はないので、山梨の勝沼にあるメルシャンにワインの醸造を委託している。白ワインのシャルドネには、NAKADANAというブランドラベルが貼ってある。グラスで飲んでおいしかったので、次の日にはフルボトルで頼んでみた。
女将さんのセンスなのだろう。氷を浮かべてギンギンに冷やしたシャルドネが入ったワインバケットに、ピンクのコスモスが一輪、たおやかに添えてある。
翌日は、前の晩に半分ほど飲み残したボトルを持ってきてもらった。二日目のバケットには、今度は黄花コスモスが差してあった。ピンクから黄色へ、ちょっとした変化ではあるが、さり気のないホスピタリティ。伝統のある日本旅館の女将さんの心づかいである。
床の間には、生花が活けてある。お湯に入りたくなったら、「文人の湯」という名前のお風呂まで歩いていく。備えつけての竹で編んだバスケットに、中棚荘の名入りのタオルと着替え用の浴衣を入れて部屋を出る。
湯屋までつづく長い渡り廊下には、コスモスとケイトウが、壁かけになった竹かごに差して飾ってある。花止めには、近くの畑から持ってきた麦の藁や、裏山に生えている姫竹などを使っている。
お湯からあがって、玄関脇にあるウッドデッキの椅子に腰かけて涼む。テーブルの上には、カップに添えられていた野趣っぽい生の花がさりげなく置いてある。宿の回りに生えている植物が、自然に宿の中に入り込んで鎮座しているのだ。
長く宿泊して最も感動したのは、最初の日のある出来事だった。「文人の湯」の男風呂のほうは、「樹木の湯」という名前である。大きな樹の下にお風呂があるので、この名前が付いたのだろう。頭の上からは、風が吹くたびに葉っぱが落ちてくる。
葉っぱと一緒にお風呂に落下してきた虫たちが、しばしば水面に浮かんでいる。お湯が熱いせいか、ばたばたと暴れている。気持ちを悪がるお客のために、葉や虫をすくい取るための補虫網のようなネットが、湯のふちに置いてある。
その脇をふと見ると、ポリカーボネイドの白いプレートが、竹の垣根に立てかけてあった。中太のマジックで黒い文字がなぞってある。お湯から逃げ損ねた黄金虫やカナブンのために、女将が書いたものと思われる。
「当館の露天風呂は、葉っぱも虫たちも大好きで、時々入りに来ています。お気になるようでしたら、逃がしてやってください」