エチオピアでは、バラの農場を三ヶ所、ヘペリカム2ヶ所。カスミ草が一カ所を訪問した。アジスアベバの郊外、1時間半以内の場所に、花農場は散在している。平均的な農場は、10~30ヘクタール。生産本数で、年間1000~3000万本である。(推測)
農場は、1990年代からあったらしいが、2003年ごろから生産が本格的に始まっている。個別の農場の栽培方法などは、一緒に旅行しているツアーメンバー(カンケさん、松島さん)のblogを参照されたい。
トータルの栽培面積は、900ヘクタール(推測、総生産は9億本?)。近年は、欧州の経済不況で、あまり伸びていない。オランダ人とイスラエル人が、持ち込んだ技術だが、農場はインド人が管理している。
バラなどは、インド方式が優勢とのこと。インド本国では、それほどすばらしい技術をもっているわけでもない。エチオビアでインド人が成功しているのは不思議である。海下さん(くクリザールジャパン)いわく、「(オランダ人より)インド人のほうが緻密だから」。
1980年代に王国が倒れて、90年代は共産ゲリラ政権がエチオビアを支配していた。
例によって、ゲリラ政権が倒れた後、エチオビア王朝時代の資産家たちが亡命から帰国した。エチオビアの花産業も、そうして始まった産業の一つである。
はじめは、ケニアからのオランダ資本の移動によるもの。ここでは、賃金が圧倒的に安い。一日わずか1ドル(注:0.8ドルに訂正のこと)。標高が2500Mと高い。
オランダ人から、めずらしい発言を聞いた。
アベシニアフラワー(ヘベリカムの育種栽培会社、本社オランダ、12ヘクタール)のマネジャーが、開口一番、「ケニアから2003年に産地を移動したとき、4品種のヘペリカムを持ち込んだ。いまは、18品種を栽培しているが、最初の品種はひとつも残っていない」。
環境にあわせて、栽培する品種を選抜した結果である。露地栽培が基本だから、なんでも制御したがるオランダ人でも、自然環境にあわせて栽培することになった。かれらにとっては、発想の大転換だったはずである。
エチオビアに関していえば、中国企業の進出が際立っていた。共産党政権時代の名残りなのかどうかはわからない。ただし、アジスアベバ郊外の至るところに、中国企業の工場を象徴する青いペンキの工場と、中国風の屋根を見かける。コンクリート工場、トラック部品工場らしき建物、など。日本がODAで作った道路や施設を、中国人と韓国人がうまく活用しているのだろう。
あと5年もたてば、この国は、見違えるように発展しているだろう。1989年に、上海郊外で見たような発展の仕方である。人々の生活は、かなりまずしい。だが、10万戸単位で、郊外にアパートが建ち始めている。消費の基盤が整備されはじめれば、すぐに経済は浮上しそうだ。繊維産業、自動車部品産業など、育成できる工場は少なくなさそうだ。人口はたくさんいる。8500万人。アジスアベバだけで、500万人。
農家人口がほとんどだから、工場労働者への転換は用意だ。住む場所は続々と準備され始めている。アフリカが離陸すれば、エチオビアは重要な供給基地になるだろう。