字幕スーパーの洋画鑑賞にまた行こう!: デカプリオ、ケン・ワタナベ主演「インセプション」の鑑賞メモ(★★★)

 長い一日だった。デカプリオとワタナベ・ケン主演の「インセプション」に続いて、翻訳の英語漬けだった。疲れているのに、翻訳や洋画鑑賞はよろしくない。しかし、久しぶりで見た字幕スーパーの洋画は見ごたえがあった。


二時間半の大作である。タイトルの「インセプション」(Inception)を、字幕スーパーの翻訳者は、劇中で「(ある種の特別な考えを意識して)植え付ける行為」と訳していた。ニュアンスはそんなものだろうか。映画をご覧になったかたは、この和訳はいかがなものだろうか?他の観客の感想が知りたい。

 「インセプション」とは、他人の夢想の世界に入り込んで、無意識のうちに、その人に未来への願望を植えつけてしまうことだ。米国人が好きな、サブコンシャス(無意識)下での心理的操作(マニピュレーション)のことである。劇場でのCM放映で、ポップコーンの売上があがったエピソードなど、アメリカ人は、サブコンシャスがほんとに好きだ。
 夢には階層性があって、物語の中では、出演者たちが夢の中でさらに夢を見る場面が出ている。それも、何階層にもわたってである。つまり、「夢の中にまた夢がある」という想定である。劇中での、ドラッグを使用してさらに刺激的なスペシャルな夢を見させる場面を演出するなど、ドラッグ好きな米国人が考えそうなストーリーである。無意識のドラッグ願望。
 最後には、デカプリオ(役名を忘れた!)の元妻が、夢と現実の違いを区別できなってホテルのベランダから飛び降りる。最近では、押尾学被告や酒井法子夫妻の薬漬けの犯罪にも、この話は通じるシナリオである。
 夢(場合によっては飛躍に発展することある)とドラック(場合によっては、創造的な営為やインスピレーションを生み出す源泉)が、結局は己の身を破滅させることを示唆している。人生の危険な教訓を学べ!というわけか。
 
 「インセプション」の話の展開を考えると、ドラック社会への警告と読めないことも無い。アメリカ映画だから、倫理的な押し付けのスタイルは、それほど窮屈なわけではない。まあ、自由に考えろということだろう。
 わたし自身も、ときどき、いまの人生は夢ではないかと思うことがある。それも、一度ならず、そう思い当たったことがある。「並行世界」(パラレルワールド)の発想や無限宇宙の存在(織田信長の能世界での回想)など、人間と宇宙の存在自体がとても不思議なのだ。
 だから、ドラッグを使用したら、夢と現実の境目がなくなるということはよくわかる。アルコールを過度に摂取すると、それに近い世界が広がることを知っているからだ。北米と中南米のインディアン(@ボゴタ、コロンビア、@マイアミ、フロリダ)も、この快感からコカインを常習していた。

 デカプリオ主演のインセプションに話を戻す。 結局、地上(第一層の現実)の時間が元に戻ること(夢から醒めること)で、夢の仮想性は解消される。フラットな時空間が現れて、デカプリオやワタナベ・ケン(saitoという役柄)は、現実に引き戻される。夢のベースには現実がある。だから、夢が終わってしまえば、人間は生きている現実に引き戻される。
 夢を見ている時間は、現実世界の10倍であるいう説明は、浦島太郎伝説にも出てくるパターンである。神話の原型(基本モデル)といわれる様式である。だから、寓話や神話の中には、夢の中の経過時間が現実世界(第一層)の時間経過より数倍長くなることが示唆されている。
 「インセプション」は、この神話的な世界観を前提に組み立てられた脚本である。ある種のコンピューターゲーム(ドラクエ、スーパーマリオ、エバンゲリオンなど)を、その原型として模倣しているのかもしれない。だから、筋書きついてはあまり真剣に考えることもないだろう。

 注文をつけるとすれば、ところどころ、話の筋が矛盾しているところや首尾一貫しないせりふもあったことだろう。しかし、その点について、現実性を真剣に考えるのはばかばかしいことだ。純粋な娯楽として、この映画は楽しむべきものなのだろう。たしかに、その価値は充分にある!
 デカプリオは、太りぎみの体型が好きではない。顔も「ノーサンキュー」なのだが。デビュー作の「タイタニック」でも、俳優としての評価はいまいち。でも、インセプションでのデカプリオはよかった。