うさぎやの「喜作最中」

 台東区上野壱丁目に、合資会社「うさぎや」という和菓子屋がある。名前の由来はわからない。創業者の喜作さんが、うさぎ年の生まれだったのだろうか。古くから東京に住んでいる人ならば、たいていの人が知っている老舗である。

 渥美俊一先生の告別式で、会葬の御礼として、うさぎやの最中がお持たせに配られた。ふつうならば、お茶とかハンカチとか、日持ちのする品になるものなのだが。
 箱を開けてみると、中身は、故人が好物にしていた、最中だった。賞味期限は、わずか4日。渥美家「御礼」と、化粧箱には白の熨斗がかかっている。

 御礼の言葉が心がこもっていて美しかった。引用をお許しいただきたい。昨日の会葬者は、帰宅後に、このメッセージを読んだはずである。

 うさぎやの「喜作最中」

  本日は酷暑の中、亡 渥美俊一の通夜・葬儀告別式に
  ご会葬いただき、誠にありがとうございました。

  この品は、三重県松阪の小津家番頭であった俊一の父 半次郎が
  東京の”おたな”から帰る際に、家族への土産として必ず持ち帰ったお菓子です。
  渥美が幼少の頃から親しみ、俊一の母、お志づもこよなく愛した品です。

  渥美俊一を偲ぶよすがとして、ご賞味いただけましたら幸いです。

 渥美家

 
 渥美さんは、実際に、甘いものに目がなかった。
 昨年の暮れが、最後の忘年会になってしまった。そのときのメンバーは、JRCの渥美ファミリー(渥美先生、宮本さん、桜井さん、梅村さん、六雄さん)に小川先生。あと数人のコンサルタントかアナリストの方たちがいらしてくださった。
 短いおつきあいの間だったが、渥美先生は、ときどき業界で影響力のある知人・有人を紹介してくださった。年二回、忘年会と納涼会。招待される方は、そのときどきで変わった。わたしは固定メンバーだったので、ファミリーのように扱ってくださったことがわかる。

 最後のその席で、好物の大きな最中の作り方を、渥美さんは説明してくれた。薄くて小ぶりな「うさぎや」の最中ではない。とても大きいが、皮の薄い最中だった。四国の老舗のものだったようだ。
 皆で食してみた。美味しかった。奥さんの宮本さんは、小さな目をさらに小さくして、笑っていた。

 「どうしてでしょう、作り方はわかりますか?」
 いつものしゃがれた声で、渥美先生が皆に問いかけた。アナリストの方が、作り方を答えることができた。「先に冷凍であんこを作っておいて、まわりからあとで皮をつける」
 「正解ですね。だから、こんなに薄く作れるんですよ」と語尾をあげて、渥美先生は得意満面の笑みを浮かべていた。

 晩年は、肺がんと心臓病(動脈瘤)をわずらい、何度も生死の境をさまよいながら、幾度となく死の淵から生還した。しかし、今度は、家族やみなの希望は叶わなかった。好物の甘いものをもう食することができなくなった。
 その代わりに、ご自分の告別式の会葬者には、甘いものをお届けしようと決めていたに違いない。きっとそうにちがいない。

 追記:
 うさぎやのHPをのぞいてみた。やはり、推測はあたっていた。初代の谷口喜作は、わたしと何回りちがうのだろうか?わたしもうさぎ年の生まれである。

 「うさぎや」のHPから:
 和菓子屋としての当店のはじまりは、大正2年現在地に開店した事からになります。創業者初代谷口喜作は富山県の出身です。創業当初、菓子折のひとつひとつに入れていた「うさぎやは素人の菓子屋也」と始まる口上には、素人なるが故に材料は最上のものを選び、味を専一に、価格は廉価に、容器は廃物利用を心掛けと、営業方針を述べて居りますが現在もこれを守り営業致しております。店名のうさぎやは、初代が卯年生まれであったことによります。