「マーケティング入門]最終章、ドラフト脱稿(5月6日17時)」

テキスト第7章「マーケティング・インテリジェンス」を夕方に書き終わった。10年ぶりで、長いマラソンのゴールにたどり着いた。予定通りに、第7章は47ページである(参考文献を除く)。解放された気分のはずであった。池の周りを4周走ってから、「はしがき」を書こうとしたが、脱力感で一行も書く気になれない。完璧に消耗しきっている。


10年前のある日のことである。55歳であの世に逝ってしまった橋本寿郎さんに、日経出版局の堀口編集長を紹介してもらった。
 「小川君、テキストまだないよね。一冊は書かなくっちゃだめよ」の一言から、あっさりとテキストを引き受けた。日経のロングセラー「ゼミナールシリーズ」に続いて、「マネジメントシリーズ」がはじまっていた。その「マーケティング入門」の担当である。
 あのころ(1990年代後半)は、毎年、二冊くらいのペースで本が出ていた。一生かかって、身長の高さまで本を積み上げることが、本当にできると信じていた。新しいアイデアもどんどん出ていた。若かったし、体力も気力も充実していた。だから、おごりもあった。
 2年もあれば入門の教科書くらい、と簡単に考えていた。だましながらだったが、翻訳などもそこそこには出ていた。時期がJFMA創設とは重なってはいたが、それはたいしたことだとは思わなかった。雑誌「マーケティング・サイエンス」の編集長の役割も回ってきていた。一度は断ったが、二度めはさすがに気が引けた。選考委員長の井上哲浩君(KBS教授、当時、関西学院大)にも悪いと思った。
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 ところが、清成忠男総長の2期目後半から政治状況に変化があらわれた。そして、2002年冬に、橋本さんが突然、心臓大動脈瘤破裂で他界した。
 今でも忘れられない1月15日である。ボアソナードタワー18階の廊下、藤沢さんの部屋の前で橋本さんは倒れた。10分前に、産業情報センターで誰かと話していた。厳しい横顔を見て、声をかけるのをやめた。その直後の倒壊だった。
 法政大学は、3期目の清成政権を支える司令塔を失ってしまった。学内に対立があった。橋本さんは、それをなんとか和解の方向にもっていこうとしていた。代わりの後継者は誰もいない。わたしは適任ではない。対立の片側の指揮官であった。総長選挙が二ヵ月後に迫っていた。
 自陣を見ると、経営学部は学部長のなり手が誰もいない。この際、学内政治からは足を洗って、アカデミックな仕事をするつもりでいた。学内行政からは引こうと思っていた矢先だったのだが、清成総長の3期目は急遽、自分が経営学部長に就任せざるをえなくなった。
 それから改革を続行するため、政権を維持するために長い戦いが始まった。清成総長から平林総長へ。2期6年間、テキストどころか、アカデミックな仕事はまったく手がつかなくなった。家庭的にも、苦難は続いていた。娘や息子が受験を失敗したり、京都で一人暮らしをはじめたり、実母や義理の父が、手術後の状況が思わしくない状態だった。
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 2008年に「喪」が明けた。総長の補佐官を降りたので、自由に仕事ができるようになった。天は、わたしが学者を続けることを待ってくれていたらしい。学部長に選ばれたばかりの神谷(学部長)に頼んで、サバティカル(一年間の研究休暇)をとった。今度は、個人的なわがままを通してもらった。
 ふたつのことを完遂したかった。10年間そのままにしていた「マーケティング入門」のテキストを書き終えること。2001年から暖めていた「小川町物語」の連載執筆に挑戦すること。17歳のときに、あこがれていた小説家になるもうひとつの道である。
 「58歳で大学を辞める」と宣言していた。残りはあと2年に迫っている。その前に、2つの借金を返しておかなければならない。ノンフィクションの小説とテキストブック。
 休暇がはじまったが、つらくて長い時間がすぎていった。絶対にできると信じて、走り続けてきた。マラソンと同じだ。休んでもいったん止まっても、また、ふたたび走路に戻ればいいのである。ゴールは見えないが、スピードは遅くとも、走り続けてさえいれば、残りの距離は確実に縮まっていく。
 いまは辛抱、いつも辛抱、いつでも辛抱と、自分をだまして歩かせてきた。遠かったとは思わない。28回もフルマラソンを完り切っているので、たいていのピンチにもびくともしない。長距離を走っていなければ、この本は書けなかっただろう。
 だって、710ページの長さは、一日も休まずに書き続けても、毎日2ページ(3000字)である。それでも、まるまる一年はかかるのだ。計算してみて、愕然としたこともある。それだから、一日10ページの速度で文章を書き進めるコツを覚えた。
 運動と同じである。設定した目標値に、自分の身体を物理的に寄せていく。それだけのことだ。猛烈に苦しんでいるので、何も考えないようになる。そのうち自然に、自分の中にリズムが生まれてくる。いつかは達成できるようになる。
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 本日、約束のひとつが無事に終わった。日経には、もうひとつ宿題をもらっているのだが、明日からはまた、小川町物語の執筆にもどることになる。長い道のりだった。長距離を走るように、710ページの本を書き終えた。こんな長いテキストを、いったい誰のために書いたのだろうか。
 自分のためだったのだと思う。小さいときから、負けず嫌いな性格だった。しかし、弱虫でもあった。泣き虫な男の子が、なんとか高いハードルをひとつ飛び越えた。サンばあちゃん(母方の祖母)が、いちばん喜んでくれているだろう。
 昭和28年6月、2歳下の妹、道子が生まれた。すぐに、年子で弟がふたり生まれる。それでなくとも商家は忙しい。居場所を失った長男のわたしは、母の実家にあずけられた。秋田県山本町字羽立。100戸ほどの小さな東北の農村部落。6歳の春まで、サンばあさんにくっついて、田舎の田んぼや畑を這いずり回っていた。
 小学生のころ、自分には母親がいないと思っていた。さすがに、サンさんが母親とは思わなかったが。湿っぽい布団の中で背中を丸めている男の子に、ばあちゃんは、いつも呪文のように語りかけた。
 「こ・す・け・、人に負けるんじゃないよ。人に迷惑をかけるんじゃないよ」
 でも、ばあちゃん、ぼくは人と戦ったことなど一度もないよ。
 ずうっと、ひとり、自分の弱さと戦ってきたんだからね。