画一化のとがめ: マックのつぎはウォルマート?

 マクドナルドの業績低迷が止まらない。ハンバーガー事業の変調は、本日の『日経新聞 朝刊』で報告されている通りである。既存店売上が対前年同月比で約8%落ちている。世界中を画一的な食文化で席巻しようとした咎めである。


グローバル小売業の次なる敗者は、米国アーカンソー州のウォルマートになりそうな気配がある。米国ビジネスジャーナリズムの論調は、すでにこの巨人を悪玉にする方向に向かっている。詳細については、先週の’Business Week'(Oct. 6, 2003)をごらんいただきたい。”Is Wal-Mart Too Powerful?”(ウォルマートは強すぎるか?)という特集が組まれている。
 これは、反語的表現である。いま強すぎることが、同社にとって問題であるという意味である。競争相手をまったく寄せ付けずに一人勝ちをすることは、将来的には危険信号である。BW誌は、そういうニュアンスの論陣を張っている。まったく同感である。
 たとえば、恐竜が死に絶えたことに対しては、隕石衝突説、えさ場不足説など、さまざまな説明理由が与えられている。真実がどうであれ、最終的に恐竜が死に絶えたのは、身体が大きくなりすぎたことが原因であろう。マクドナルドやダイエーがそうであった。つぎは、巨人ウォルマートが瓦解するときが迫っている。
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 ビジネスウイーク誌によれば、ウォルマートは世界10カ国に1309店舗を開いていることになっている。ワールドワイドの売上高は2450億ドル(約27兆円)。英国のアズダは統計に入っているだろうが、資本業務提携している日本の西友の売り上げは、これに含まれていないだろう。ドイツでは商売は不振だが、その他の国では大いに健闘している。西友の実質的な買収は、吉と出るか凶と出るかわからないが、現地対応もよく考えられており、参入戦略として相当に立派である。
 問題なのは、国内事情である。都市部への進出(5年でさらに1000店舗)はこれからだというが、米国の田舎ではすでにオーバーストアぎみである。かつてマクドナルドのビジネスに陰りが見えてきたときとそっくりである。同僚の矢作敏行教授が、10年ほど前にヨーカ堂の躍進を評して、「日本全国、どこへ行っても鳩のマーク・・・」と言っていたが、ウォルマートも同じ状況にある。
 具体的な証拠を示してみよう。ほとんどのパッケージ商品で、ウォルマートの全米シェアが20%に近づいている。全米小売市場で、ウォルマートは、紙おむつで32%、ヘアケア製品で30%、歯磨きでは26%のシェアを握っている。たしかに、賃金水準が決して高くない米国人の消費者に対して、競合企業より平均17%も安い商品価格を提供しているという貢献はある。それは紛れもない事実であり、経済性という点で他社の追随をまったく許していない。だからといって、納入業者から棚賃(スロットフィー)などの形で協賛金をとらないなど、総じて言えばウォルマートの商売は公正である。
 しかしながら、雇用者の賃金は米国の最低賃金より約10%ほど低く、裁判の国である故か?全米で数千件の訴訟問題に発展している。離職率も一時は年70%であった。現在は40%前後といわれている、景気の低迷で行き場がない労働者が多いからと言われている。
 結論である。一つの企業が大きくなりすぎることで、消費はまちがいなく画一化に向かう。世界中どこへいっても、ウォルマートの商品ばかりであることは良いことだろうか?わたしたちは、米国人から「選択の自由」や「消費の個性化」という文化を学んだはずである。そのための自由主義経済であり、民間企業活動の振興だったのではないだろうか?
 創業者のサム・ウォルトンが生きていたならば、いまのウォルマートをどのように評価するだろうか? 標準的な米国人の良き生活を経済的に支援することが、同社の使命であった。しかし、行き過ぎた事業の画一化と同質的な商品政策は、どの国の消費者をも幸せにしないだろう。
 小売業はそれ自身が文化である。文化はできるだけ多様であるほうが、ひとびとに多くの幸せを提供することができる。効率は2番目に来るべきものである。世界中に同じような店舗を作り、その店舗を見た目もスペックも同じ商品で埋め尽くすことは良いことだろうか? マクドナルドが世界中から同じ食材を調達し、まったく同じ食事を提供しようとしたことが、最終的には同社の事業をおかしな方向に導きつつある。このままいけば、ウォルマートもマクドナルドの二の舞になるのではないだろうか。
 米国企業は極端に走る傾向がある。戦略的なバランスが悪い事例は、ビルゲイツのマイクロソフトを見てみるとよい。価値観の押しつけ、画一化と一人勝ちが好きである。それがいつかは墓穴を掘る原因になる。そのことに気づいたならば、企業はどこに向かうべきだろうか? 企業経営にとって永遠の課題ではあるが、一つのヒントは、おそらく何事にも「ほどよい加減」というものがあるということである。