12年前のわたし(中村さんが見た42歳の小川先生)

7年ぶりに中村麻矢(まや)さんと再会した。場所は京都・同志社大学ビジネススクール、林廣茂研究室である。


どういうわけか、(株)ノヴァクションで林社長の秘書だった中村さんが、いまは林教授夫人におさまっている。二年前から、66歳の林教授の「余生を支える手伝い」をしているそうだ(笑い)。
 年齢を公表すると怒られそうだが、最後に中村さんにお会いしたとき、彼女は当時のわたしより少し若いくらいの年齢だったはずである。相方のリサーチ会社社長は、法政大学ビジネススクールの博士課程の学生(第一号)であった。
 その夫人となった女性が、初対面の時、42歳のわたしをどのように見ていたのか?「アジア移転研究会」のあとの懇親会で、かつての印象を話してくれた。なるべく主観を交えずに、中村さんの感想をHPで紹介したい。
 そんな風に見られていたのか?と驚きでもあった。先ほど、電話で中村さん本人から確認を取ったので、強烈な印象ではあったにちがいない。3つのポイントと、なぜそんな風に感じたのかの理由を、すらすらと話してくれたからである。
  
 42歳のわたしは、「さわやかな野心家」。「むちゃくちゃ頭の良いやんちゃ坊主」。でも、「人にこびることはなく、ときどき嫌みなことを平気で言う人」だったらしい。本質は変わっていないそうだ。「いまは当時より気持ちも見た目も若返っていて、健康で物腰が柔らかくなった」(中村さん)。それはそうだろう。ずいぶんと世間の波にもまれて、人並みに苦労はしてきたはずだから。
 「さわやかな野心家」の意味は、彼女に会った途端に、「一生かかって、自分の背の高さまで本を積み上げることを目標に仕事をしてる!」とあっさりめに主張したかららしい。当時はまだ、ようやく7~8冊を出版し終えたばかりである。いまならば、書いた本(約30冊)を横に並べたら、膝の高さにはなっているはずである。何の実績もないのに、すごいことを豪語していたものだ。
 「頭の良いやんちゃ坊主」は、文武両道を地で行く人間というお褒めの言葉であった。42歳前後は、10年間続けていたテニスをやめて、フルマラソンにはじめる前である。ホノルルマラソンに挑戦する直前のことである。10年で国内外の大きな大会にも出るようになり、ずいぶんとカラダが絞れてきている。体脂肪率はいま9.7%である。やんちゃは変わらない。ただし、「(あまりに忙しくて、)他の人に時間をあげているから、先生は本を読む時間がなくなってしまった」(青木恭子)。まじめに勉強はしなくなったので、ちょっとお馬鹿になったみたいではある。もう「頭が良い」は、別の意味になってしまった。
 アイリスオーヤマ(仙台)の大山健太郎社長から、わたしの嫌みな発言は「小川節」と言われている。社会的に地位が高い人に対してはとくに、経営者として成功している人であればあるほど、その事業活動や思想・理念に対して「方向性の間違い」を無邪気に指摘するのがわたしの特徴であるらしい。大企業のサラリーマン経営者には、したがって、わたしはすこぶる評判が悪い。基本的に「ヒラメな人間」は嫌いである。
 それが原因で、失敗することが多い。偉い人にこびないので、かなり苦しい目にも遭ってきた。反対に、しごとでは使いやすい「イエスマン」の部下も好きではない。わたしのこうした態度は、年上・年下に関わらず、わたしの行動や考え方に対して、あらぬ誤解を生んだこともしばしばだった。
 経営学部の今橋隆教授は、わたしのだらしのない性格も含めて、全体的にはそういう私の性格をポジティブに評価してくれる数少ない同僚である。「めっちゃわがままだけど、最後は責任を取ってくれるひと」と彼は言ってくれた。花粉症がひどい今橋さんは、来年度からは気候が良いニュージーランド(北島のワイカト市)に移住する。ご本人は花粉症マスクから自由になるが、わたしは信頼できる同僚が居なくなるのでとても残念である。

 結論: そんなわけで、12年経過しても、実は本質はあまり変化していないらしいことがわかった。ただし、生き方には余裕が出てきたかもしれない。死ぬときまでに、横に置いて166、5㎝の本を積み上げる決心は揺らいでいる。カウントできるのは初版だけではなく、運良く再版になったら新しい本として一冊に数えるとか、姑息なことを考え始めている。
 尊敬できない、好きでもない相手ではあっても、ときどきはゴマをすることができるようになった。爽やかに、何の衒いもなくゴマをすることを覚えた気がする。嘘をつくのが平気になったのは、性格が悪くなったからかもしれない。

 中村さん! 文脈の間違いをご指摘ください。