1977年に、調査で立ち寄ったヤオコー児玉店(跡地)を30年ぶりで訪問した。7号店がいまは存在していないことを川野会長から知らされてはいたが、どうしても立ち寄ってみたかった。
当時は1階がヤオコーで2階はしまむらだった。『ヤオコー30年史』に、1987年時点の児玉店の写真と住所が残っていた。埼玉県比企郡児玉町大字児玉1349、電話番号0495-72-4XXX。番号に電話をしてみた。女性が電話口に出てきて、地番が14XXであることを親切に教えてくれた。約10年前、ヤオコーの電話だったことは知らなかった。
当時の記憶をたどって、車を走らせてみた。関越自動車道の花園インターでおりて、国道254号線を藤岡方面に向った。午後1時半すぎ。30年前の秋は、逆方向でイトーヨーカ堂藤岡店から児玉町に向って走った。学生の安嶋くんか静井くんが、梅沢先生のブルーバードを運転していたはずである。児玉町は、今は本庄市に編入されている。地番も大字が取れていた。
児玉町の街区に入ると、国道と分岐するY字路にセブンイレブンがあった。アルバイトの女の子に地番をたずねると、フロントまで案内してくれた、ポスターに、児玉1251番地とある。ちょうどパトカーが巡回に来ていたので、児玉1349番地の場所をたずねてみた。パトカーの中で待っているもうひとりの同僚に、その警察官は「住宅地図はあるか」と声をかけてくれた。やはり、持っていない。「警察も異動が多いんでね」と申し訳なさろうに謝っている。「その道の先に児玉警察署があるから」。地元の警察でたずねてみてはとアドバイスしてくれた。
さすがに、児玉警察署には古い住宅地図が保管してあった。若い警察官が探してきた古い住宅地図を丁寧にめくってくれた。町村合併前の地図である。大字児玉が載っている。1349番地を探してくれたが、児玉小学校の向かいが1348-1。「児玉隣保館」とある。その向かい側の地番は1351である。1349はそこにはない。たぶん、隣保館の付近のどこかである。小学校まではあと3分ほど走れば行けるというので、直接そこまで行ってみることにした。わたしの記憶は鮮明に蘇ってこない。道の右側だったのか、左側だったのか?国道沿いのような気もするが、もしかすると児玉駅近くの商店街の中にあったかもしれない。人間の記憶とは不確かなものである。
その場所は、駅前の商店街からは大きく外れていた。児玉小学校に着いたが、児玉隣保館のとなりには、それらしき建物は何もない。表札をいちいち確かめるのも面倒である。児玉小学校との交差点のはす向かいに、学校の制服を売っている洋服屋があった。当時はしまむらと同業だっただろうから、きっと地番と跡地のことは知っているだろう。ドアをノックすると、店の中から50歳代後半のおじさんが出てきた。「隣保館の隣の白いフェンスで囲ってある場所があるでしょう。あれがヤオコーの児玉店だった場所だよ。10年くらい前までだったかな」
「入居者募集」とある。真新しいアパートが3軒建っている。ある学校の先生が所有していた土地を借りて、ヤオコーとしまむらが2階建ての店を開いていたことを、当時のしまむら児玉店長だった伊藤孝子さんから、このあと1時間後に聞くことになる。とりあえず写真を5枚。シャッターを切って記録に残しておいた。もう二度と来ることはないかもしれない。
* * *
夕方まではあまり時間がない。とりあえず、つぎにヤオコー発祥の地、小川町ショッピングセンターと島村呉服店(一号店)に行ってみたいと思った。今日の2番目の目的地である。児玉町から小川町までは、東松山方面に20キロほど戻ることになる。
人口約3万4千人と聞いていたから、小川町は小さな町だと思っていた。しかし、東武東上線と八高線の乗換駅になっているせいなのか、小川町駅の駅前は結構にぎやかである。ヤオコーの看板が小川駅のすぐに近くに見えてきた。大晦日である。ヤオコーがキーテナントになっている小川ショッピングセンターはとても賑わっている。駅前立地の近隣型ショッピングセンターである。駅前にしては駐車台数をたくさん確保できるように設計してある。1階がヤオコーと近隣の専門店(花屋、宝石店、お茶屋など)が数店舗、二階は東武ストア(衣料品)と百円ショップ(CanDo)である。店舗規模は駅前にしては案外に大きい。
帰りがけに、島村呉服店があった場所を地元の人に尋ねるのを忘れていた。仕方が無しに、帰路につくと、国道を外れようとした交差点に、ファッションセンターしまむらとアベイルが突如あらわれた。比較的新しい明るい開放型の店である。しまむらに入って、フロアの若いパートさんに、「むかし、島村呉服店があった場所を教えてもらえませんか?」とたずねた。彼女はにこりと笑って、カウンターにわたしを案内してくれた。「しまむらの一号店にいた方がいま向こうにいます。しまむらのことなら何でも知っている「生き字引」をご紹介しますから」
カウンターで包装の作業をしていたのが、伊藤孝子さんだった。わたしが事情を話すと、メモ帳を出して島村呉服店があった場所の地図を描いてくれた。
「小川町駅から歩いて交差点を二つ目、吉田さんという雑貨屋さんがあります。その角から3軒目に島村呉服店があったのです。交差点の角から1軒目が魚やさん、2軒目が自転車やさん、その隣の3軒目が島村呉服店でした。いまは吉田さんになっていますが」
伊藤さんは、その当時。島村呉服店(一号店)で働いた経験があった。そして、なんと、わたしたちが訪問した30年前(昭和52年)、すなわち51年5月開店の翌秋に、児玉店の店長を勤めていたのである。伊藤さんは、しまむら女性店長の第一号だった。とても若くて50歳半ばにしか見えないが、68歳である。伊藤さんも藤原会長も、私と同じうさぎ年だった。
3年前に定年を迎えた伊藤さんは、さらに嘱託で3年間働いたそうだが、その後も繁忙期で店が忙しくなるときだけは、こうして助けに来ている。島村恒俊オーナー(元相談役)も、しばしば小川町に遊びに来るという。わたしが「小川町物語」の構想を話すと、島村オーナーの連絡先を教えてくれた。
「当時は、ヤオコー児玉店の店長は、竹沢さんでした。いまは、小川店で店長をしています。そういえば、島村オーナーは、清水屋さん(呉服屋)で番頭をしていて、あの場所で島村をはじめたのです」
伊藤さんは、藤原会長のご実家、横須賀のフジワラストアーにも行ったこともあった。1月8日午後に、伊藤さんにインタビューをさせていただくことにした。元ゼミ生でヤオコー部長の塩原君に会う前に、小川町駅前に住んでいる伊藤さんを訪問することにした。