若いころは考えても見なかったことが、ある年齢になって思わぬ形で起こることがある。そのひとつが、当たり前のように毎日食べてきた料理がある日突然、味わえなくなってしまうことである。
お気に入り料理が、ある日を境に食べられなくなった最初の“悲しい出来事”は、ちょうど10年前に起こった。料理上手だった義理の母(奥村純子)が脳梗塞で倒れてしまったからである。
運よく一命は取りとめたものの、倒れて以降の純子さんは、手の込んだ料理をすることができなくなった。おそらくは、料理をする時の舌と手の感覚を失ってしまったからである。発病によって、料理をする意欲を失ったようにも見えた。
妻の実家を訪問するときのわたしの最大の楽しみは、義母の純子さんが作ってくれる「がんもどき(の煮付け)」を食することであった。がんもどきは、立石駅前の豆腐屋さんで仕入れていた。そういえば、この豆腐屋さんがそもそも3年前に廃業してしまっているので、純子さんが健康であったとしても、食材の調達が困難になっていたかもしれない。
味付けは、お醤油たっぷり、みりんの味がよく効いた江戸風であった。関西人は、東京のおでんのことを「関東炊き」と呼ぶ。もともと秋田県出身で、濃い目の味に慣れていたわたしの舌には、義母の純子さんが作ってくれる「関東炊き風のがんも」はそれそれはこたえられなかった。
しばしば、ごま塩をまぶしたお赤飯とセットで、このがんもどきは食卓にのぼったものである。自宅にタッパウエアに入れて持ち帰った翌日のがんもどきは、これがまた格別にうまかった。一日おいても、いや翌日だからなおさら、かつおだしとお醤油がさらに浸みて、深い味わいになった。妻はこの味を継承することができなかった。もともと濃い目の味が苦手だからである。なので、3人姉妹の誰かにこの技能が伝承していることを期待するしかない。しかし、まだそれを確かめてはいない。
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実母のワカさんも、秋田で毎年、東京に住んでいるわたしたち兄弟姉妹(3人)のために「らっきょ」を漬けてくれていた。最初のころはタッパーに入れて、その後は大きなガラスのビン(壷)に入れて、千葉のわが家に宅配便で送ってくれた。米国留学期間に一度このらっきょ便は中断したが、帰国後には20年続いた。しかし、らっきょの宅配便の習慣は、2年前にワカさんが倒れて休止になった。
秋田の実家から送ってくれた壷(ビン)には、漬け込んだ年号がマジックインキで書かれていた。そのほとんどが、カレーライスに添えられていた。独立する前には自宅にいた子供たちも、実母のらっきょを喜んで食べてくれていた。この食材が、秋田の婆さんと離れて住んでいるわたしたち家族との数少ないコミュニケーションの触媒の役割を果たしていた。すぎてしまってから後に、ふと気がついたことである。
母のらっきょは、ヴィンテージものである。2006年のビンがもはや最後になる。残念ながら、健康を損ねてしまったことを反映してか、二年前のらっきょの出来はあまりよろしくない。しかし、これが最後のロットになるので、大切に食べることにしている。
そういえば、父親(小川久)がなくなったとき(1982年61歳で逝去)に、実家の床下収納庫に「姫竹の缶詰」が多量に残されていた。山歩きが好きな父親は、当面は食べない姫竹を、知り合いの食品加工業者に頼んで缶詰にしていたらしい。父が死んでからも3~4年くらいは、この姫竹の缶詰が煮付けに登場していたことを覚えている。
わたしは、この缶詰を不思議な思いで食べたものである。手ぬぐいをかぶって、竹やぶの中を、ご機嫌が良い証拠の口笛を吹いて、すたすた歩く父親を想像していた。わたしは子供たちに、どんな食材やレシピを残していくことになるのだろうか?