高温多湿で水質水量ともに豊富な日本で、つい最近までは「水」が商売になるなどと考えてみる人はいなかった。
カリフォルニアで水を買って飲む習慣がついてしまった筆者が、17年前に米国留学から帰ってきたとき、ミネラルウォーターが使用販売されている場所は、バーのカウンターで水割りをつくるときに限られていたように思う。
そのほかでは、外国人が宿泊する高級ホテルの冷蔵庫の中に、申し訳程度にペリエなどと一緒に置かれていた記憶がある。それもよくみれば、瓶の日付は決してそれほど新しいものではなかった。
70年代の後半から水道水のカルキくささが気になる人のために、浄水器は確かにたくさん売れていたが、ふだんの生活の中で水を買うことに日本人が金を払うなどとは考えにくかった。ところが、常識は間接的なルートで破壊されていった。
水を水として販売することで、ミネラルオーター市場が誕生したわけではなかった。日本で水が商品になったのは、80年代後半のダイエットブームによるものである。「ヴォルビック」や「エビアン」がフランスから輸入され、若い女性の間でファッションとして飲まれるようになった。「クリスタルゲイザー」(米国産)などが欧州の水に続いて輸入されはじめた。とりわけ、カルシウムやマグネシウムなどミネラル分を多く含んだ硬水系のフランス産ミネラルウォーターは、体内に貯まった毒素や脂肪分などを排出する効果があることが喧伝された。事実かどうかあやしいものではあったが、女性たちの間ではそうした「健康に良い物語」がまことしやかに伝わっていった。
TVや雑誌がファッションとしての水を取り上げると、日本ブランド名の水を大手加工食品メーカーが発売するようになった。ハウス食品の「六甲の水」やサントリーの「南アルプスの天然水」などである。それに続いて、大手量販店からはPB商品のミネラルウォーターが発売された。こちらは商品としていまだ成功するに至っていない。それは当然であろう。良いイメージのブランド名がついていない水など、顔がない役者タレントのようなものである。差異化するのが困難だからこそ、水にとってはブランドが生命線になるのである。
水の市場を大きくしたもうひとつの隠れた理由は、「ペットボトルを持ち歩く」というファッション性であった。すなわち、物理的な水そのものではなく、水をおしゃれに持ち歩くというスタイルが受け入れられたのである。南仏側から見たアルプスを象った透明なかわいいミニボトルが、働く女性のファッション小物として売れたという側面である。ソフトドリンク一般を飲むことでは、ボディーコンシャスな女性の自己主張を鎮めることはできなかった。カロリーフリーな水によってしか、究極のダイエットは達成できない。ブランド化された輸入水を小脇に抱えて歩く姿を見せることは、そうした行為の象徴であり論理的な記号であった。
そんなわけで、「エビアン」(伊藤忠カルピスウォーター)が発売した取手付きの丸型ボトル(500CC)は、現在でも非常によく売れている。この容器は、2年前にエビアン社が創業200年を記念して企画発売した商品であった。丸っこいボトルの形状がフィットネスクラブでエクササイズする女性たちの間で熱烈な支持を得ている。欧州食品コングロマリットのダノン社が、M&Aで子会社化したエビアン社を通してマーケティングした商品が、いまではコンビニの定番品として人気を博して定着している。
水が商品になりうることを知った日本人は、日本各地でその後、町おこし・村おこしの手段として地元の名水をペットボトルに詰めるようになった。ところが、販売の実績はといえば、経営的にはなかなかきびしいものがある。ボトリングのコスト、重たいものを運ぶことからくる輸送費用の過大な負担。マーケティングを理解しない地方政府の思いこみと政治的な思惑。そのなかで、きまじめに働くマーケティング担当者は苦悶している。
ペットボトルに詰められた日本の名水が、エビアンやボルビックのようにブランドの領域に達することができないのはなぜだろうか? それは、ブランドの本質を理解することなく、観光地のみやげもの品と同じ水準で水を考えようとするからである。商品を企画する主体が本来立案すべきシナリオがないままにリリースされた商品は、早晩にマーケティングの壁に突き当たることになる。ブランドとして超一流になれない原因は、水にまつわる物語性の欠如にある。
18世紀のスイス国境近くにある田舎町エビアンに、ひとりの貴族が腎臓病を煩ってパリから逃がれて来た。温浴して飲んだミネラル分に富んだ水が、彼を末期の病状から快復させる。奇跡の水という神話を紡ぎながら誕生したのがエビアンである。エビアン伝説は、アルプスに降った雪が融け出し、地下水脈を伝って流れ出てくる水滴の清涼さを物語の源泉として持っている。もちろん、良き水が持っているおいしさを味わうという面が消費者にないわけではないが、それ以上に、われわれはアルプス山系に抱かれた水脈の物語を消費しているのである。