前回のブログ(8月5日)では、実父、小川久が八丈島で終戦を迎えた話を紹介しました。もう1人、80年前の戦争に翻弄された肉親がいます。伯父の珍田武蔵(ちんだ たけぞう)です。
わたしは、4歳から5歳まで母の実家に預けられていました。長男のわたしの後に、4年間で3人の子供が年子で生まれたからです。昔はよくあったことらしいです。
母の実家の方は、秋田県山本郡山本町の地主の家系です。珍田家の主は、わが母の実兄で、名前は武蔵。わたしは、伯父にとても可愛がってもらいました。
武蔵伯父は、農作業はその他の家人に任せて、自分は秋田県山本郡山本町(現、三種町)の収入役(財務担当)をしていました。
伯父は、甥っ子のわたしに戦争体験を時々話してくれました。少しだけお酒が入ってから、囲炉裏を囲んでの話はいつも、「なあ、こすけ(わたしのあだ名)、、」で始まります。
満州では衛生兵でしたから、何人もの兵隊たちの足や腕を切断した話とか。夜営のテントに砲弾が落ちてきて、隣に寝ていた同僚が粉々になった話とか。実に怖い話を、静かな語り口で淡々と話していました。
伯父には、2人の兄がいました。1人はレイテ沖海戦で、もう1人は南方戦線で戦死。三男の武蔵伯父だけが、満州から生きて帰ってきました。珍田家は大きな農家でしたから、誰かが後を継がないといけません。
そこで、戦場で亡くなった兄たちの嫁(義姉)と、伯父は結婚して家を守ることになります。その後、兄たちの2人の子供を育てながら、程なくして自分にも2人の男の子を授かります。
珍田家の家族関係はとても複雑でした。3人の兄弟に、父親が違う4人の男の子が生まれていたからです。さらに、4歳で羽立の家(珍田家)に預けられたわたしは、”5人兄弟の末っ子”として、祖母の珍田サンに育てられました。
こんな風に描いてしまうと、伯父は悲惨で凄惨な人生を送っていたように見えます。ところが、伯父の生きざまは恬淡としていて、終わり方も実に静かでした。わたしは、伯父が自分の運命を嘆いている様子を一度も見たことがありません。
伯父は人望がありましたから、周囲から町長に何度も推されていました。しかし、「戦争で一度終わった人生だから」と、町長選挙への出馬を断り続けました。選挙に立候補すれば当選はまちがいなしでしたが、出世欲や功名心が全くないひとでした。
町役場では、ずっと収入役でした。この地域に工場を誘致することが、伯父の最晩年の仕事でした。一方で、農地の区画整理などでは、静かに辣腕を振るっていました。ここが面白いところです。例えば、じゅんさいです。
じゅんさいは、京都の料亭などに納める、高価でぬめりのある水草です。お吸い物に浮かべたり、酢の物にします。もともと山本町森岳の沼に自生していたじゅんさいに目をつけたのが、わが伯父でした。減反政策の時代です。転作補助金を獲得してきた伯父は、田んぼをじゅんさい池に変えていきます。
伯父のおかげで、農家はかなり儲けることができました。その農家さんたちは、いまはじゅんさい池に小舟を浮かべて、観光客にじゅんさいを摘んでもらう観光イベントを三種町(旧山本町)とともに企画運営しています。
アイデアマンでもあった伯父は、地域貢献をして多くの実績を残しました。しかし、わたしには、淡々と、そう淡々と、「残った時間を生きている」と話していました。凄惨な戦場の景色を、伯父は生涯忘れることができなかったのでしょう。
本人はお寺の総代になり、生前に戒名をもらい、生前葬を終えて静かにこの世から去っていきました。享年は、60歳代半ばだったと思います。今でも本当の子供ではない甥っ子のわたしが、性格的に武蔵さんと一番似ていると言われています。
<参考>
母方の家系(珍田家)には、1900年代初頭に米国サンフランシスコで総領事を務め、排斥されていた日系移民のために奮闘した珍田捨巳(ちんだ すてみ)がいます。弘前市の出身で、天皇の侍従長を務めた人です。珍田家のわたしたちは、その遠い末裔ということになります。
✳︎珍田捨巳(ちんだ すてみ)のWikipediaは、

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