【柴又日誌】#136:大曲の花火大会2023、リベンジの旅

 「大曲リベンジ花火」の観覧を終えて、秋田新幹線の「こまち14号」で上野まで戻ろうとしている。秋田県人なのに、生まれてこの方、技術的にも演出的にも日本一と言われる「大曲の花火大会」を見たことがなかった。2022年の春先のことだった。突然のことで、友人の鷲澤さんから電話が掛かってきた。

 

 鷲澤幸治氏は、NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」(2020年)にも出演している。トレードマークの赤いシャツを着て、テレビや雑誌・新聞などにも登場する著名人だ。花の業界人ならば、だれでも鷲澤さんの名前を知っている。世界的に有名なダリアの育種家である。

 2009年(平成21年)の秋に、鷲澤さんは「秋田県文化功労賞」を授賞した。ダリアの育種で、大輪の「黒蝶」や小ぶりな紫色の「みっちゃん」などを生み出した功績が認められてのことだった。その他にも、秋田国際ダリア園を開園して、秋田県の地域観光振興にも貢献している。

 その折に、花業界から長年の友人を代表して、わたしは授賞式で冒頭の挨拶をさせていただいた。思い出すたびに冷や汗が出てしまう。授賞式会場での祝福のスピーチは、大いに物議を醸したものだった。そんなハプニングがあっても、鷲澤さんはわたしに何かにつけて恩義を感じているようだった。秋田生まれの元大学教授と育種家で元船乗りの友情は、変わらず現在に至っている。

 四季折々に、段ボールに地元新聞の紙を敷き詰めた”山のもの”を、鷲澤さんはわが家に送ってくれている。「友情の証」の箱には、いつも自然薯やマイタケが入っている。鷲澤さんから届いたキノコを、かみさんは天ぷらに揚げてくれる。粘り気が強い自然薯は、わたしの好物のマグロの山掛けになった。

 ところが、2年ほど前に鷲澤さんは奥さんを病気で失くしてしまった。しばらくの間、鷲澤さんからの「山のもの定期便」が途絶えてしまっている。伝え聞くところによると、大酒飲みだった鷲澤さんが、お酒をほどほどに控えている様子だった。急な電話は、何とはなしに心配していた矢先のことだった。

 

 「しぇんしぇ(先生)、大田花きの宍戸くんにチケットを2枚、預けてあるから。大曲の花火、いじども(一度も)見だごどねえでしょ。8月に奥さんも連れてきて!」。かみさんも、8月23日開催の大曲の花火大会に招待を受けた。鷲澤さんは、大曲の隣町、角館の出身である。

 大曲の花火は毎年、雄物川に沿った河川敷で開催される。今年で開催が95回目になる。大曲の花火の歴史などについては、昨年の今ごろ、このブログで紹介してある。歴史のある花火大会行事は、戦前からはじまっている。戦争などで何度かの中断があり、戦後になって押しも押されぬ日本一の花火大会へと続いている。5年後に100回目を迎える。

 大曲の花火会場は、フラットで横長の広い芝生を利用して、有料の観覧席がゆったりと作られている。花火の音が周囲の山々に反射して、きれいに響いて河原に戻ってくる。わたしの印象では、大曲の花火大会が日本一整然と運営できているのは、こうした地形的なアドバンテージがあるからだと思う。

 

 観覧席のチケットは、1つのテーブルに4人が座ることができる。スペース的にも、窮屈さを感じることがない。この花火大会の開催チケットの流通がどうなっているのか?わたしにはよくわからない。突然降って沸いたように、鷲澤さんから電話をもらってチケットが入手できた。観覧の場所が確保できたのは、普通に考えるとありえない幸運なのだろう。

 文化功労賞の授賞歴がある鷲澤さんは、教育関係者などを通じてチケットを確保するネットワーク(「コネ」とも言うらしい)を築き上げてきた(らしい)。コロナ前から、宍戸くんと福島在住の妹さんファミリーは、大曲の花火で特別席に招待を受けていた。花火大会の当日、日帰り温泉の休憩室に雑魚寝して泊った際に、宍戸くんから知らされた情報である。

 昨年からは、わが友人の伊豆元さん(宮崎のダリア生産者)と、小川夫妻が新規の招待者リストに加わったわけである。鷲澤さんは、2022年の花火大会観覧のため、わたしたちには4つの席を用意してくれていた。ところが、あろうことか!かみさんは鷲澤さんからの招待を断ってしまった。安心して眠れる「宿泊施設」が確保できなかったからである。

 かみさんの桟敷席には、青山フラワーマーケットの大草さん(商品開発)が代わりに座ることになった。ところが、去年の花火大会当日は、夕方から大雨になった。浴衣姿の大草さんは、土砂降りの中で散々な目にあった。それでも、泣き言を言わない彼女は、とても立派だった。

 別れ際に、一緒に傘を差しながら花火を鑑賞した伊豆元さんと誓ったものだ。昨年は大雨だったから、ふたりして花火鑑賞には納得が行っていなかったからである。「来年は、リベンジにまたここに来ましょうね!」。

 そして、今年の大会を迎えた。大曲市内での宿泊施設の確保など、準備は万端だった。昨日は、晴天の花火大会になった。夕方から川風が吹き始めたので、昼間は35℃まで気温が上昇したことを忘れるくらいの快適さだった。

 午後17時からは、「昼花火」の打ち上げから始まった。そこから21時過ぎまで、「ブロック7のエリア11」のテーブル席に座って、酒とつまみと弁当で花火の宴席を楽しんだ。割り当てられたテーブルの場所は、今年も上席だった。エリア11は、雄物川の川岸から2番目に近い場所である。対岸から花火が打ち上がる様子を、直に仰ぎ見ることができる特別な区画である。花火を真下から見上げているうちに、わたしは首が痛くなってしまった。特別待遇ゆえのお愛嬌だろう。

 

 今年も、夜の花火は19時からはじまった。約2時間半に渡って延々と続いていく、超豪華な花火の競演だった。全国12都県から出品してくる煙火店は28社。打ち上げられた花火にシンクロナイズされる音楽を、約60万人の観客(主催者発表)は楽しむことができたはずである。翌日のネットニュースで知ったのだが、第95回大会の優勝(内閣総理大臣賞)は、茨城県の野村花火工業だった。

 正直に言ってしまう。競技大会の審査員16人が、本番が始まる直前に紹介されていた。審査員の所属を聞くと、大学教授と官僚(経済産業省や中小企業庁)がほとんどだった。言いたいことはご理解いただけるだろう。どのような基準で審査がなされているかは知らないが、このような人選で公平な審査ができるものなのだろうか?

 

 先ほど大曲の駅で伊豆元さんと別れて、わたしは東京に戻ることになった。「えきねっと」からの事前予約では、「こまち22号」(大曲発11:41)も席を確保してあった。ところが、早めについたので、みどりの窓口で尋ねてみたところ、こまち14号(8:43発)に空席があった。前日にキャンセルが出たからだろう。大曲シティホテルが、ぎりぎり3日前に予約ができたのと同じ理屈だ。

 それでも、3時間分は得をした気分になった。大曲駅からは、各駅停車で盛岡まで行くつもりだったからだ。先に盛岡駅に着いて、1時間ほど待ってから「こまち22号」に乗り継ぐつもりでいた。この手順は、長岡の花火大会ですでに経験済みだった。

 大曲からのこまち14号は、予約変更時に若干の空席があった。しかし、実際に乗り込んでみるとほぼ満席だった。残念だったのは、長岡の花火ときのようには窓際の席が取れなかったことだ。秋田新幹線は大曲を出てからは、角館から田沢湖を経由して雫石まで奥羽山脈を越えて走る。車窓からの眺めが素晴らしいのだ。眼下に見下ろす川の流れや、通り過ぎていく山の木々の緑も目に鮮やかだ。

 電車に揺られながら、秋田国際ダリア園の経営について、次男の康二さん(やすじ園長)と宍戸君と3人で、花火大会の前日に話したことを思い出していた。今年で76歳になる鷲澤さんには、3人の息子さんがいる。全員がダリア園に戻ってきたが、いまは康二さんだけがお父さんの仕事を支えている。

 

 どんなに成功した事業家であっても、後継者が育つまでには、かなりの時間を要するものだ。しかも、他の業界から親父さんのビジネスを継承するために移ってきた息子さんが後継者になると、必ずや親子は仕事で衝突をすることになる。息子にやりたいことがあっても、親父の目の黒いうちは、自分の仕事の流儀(プロフェッショナルのサブタイトル)を変えようとはしないものだ。

 鷲澤さん親子も、同じ問題を抱えているようだ。同じ仕事場で働いていることに困難を感じている康二さんに、正直な意見を述べてみた。「(本人の希望で)ダリアの育種に専念したいのなら、観光農園のほうは誰かに任してしまったら?」と。鷲澤の父さんは、全国各地に信奉者を抱えている。

 鷲澤さんの車の助手席に座っていると、運転中でも生産者からひっきりなしに電話が掛かってくる。片側2車線の混雑している道路で、できれば電話に出ないでほしいと思う。しかしながら、鷲澤お父さんは、「(車が)停まるまでは出ないようにしてるんだけどね」と言いながら、相手方の電話番号をチェックしている。交通事故にあったことはないのだろうか?

 バラの栽培で行き詰まりを感じていた伊豆元さんを、鷲澤さんに紹介したのはわたしだった。いまでも伊豆元さんには感謝されている。伊豆元さんのように、鷲澤さんにはダリア栽培の信奉者が全国各地にいる。彼らがアドバイスを求めて、運転中の鷲澤さんを捕まえては、群れをなして秋田の国際ダリア園にやってくる。

 

 事業を継承する息子さんが農場に入ってきても、自分の意見を通すことは簡単ではない。76歳のカリスマ育種家=「ジーザス鷲澤」には世話になっている、10ダースを超える信奉者がいるからだ。だから、ビジネスのやり方で衝突するのを回避するために、康二さんは巧妙に立ち振舞わなければならない。具体的に言えば、ダリアという品目ではない、分野ちがいの有力な業界人を味方につけることが必要なのだ。

 花火の前日、秋田の飲み屋さんで4人(康二さん、宍戸くん、伊豆元さん、小川)で酒を酌み交わした。「(観光事業ではなく)育種に専念したい」と康二さんはぼろっと言った。それに対してわたしから提案したかったのは、著名な育種家(例えば、坂嵜潮さん)や育種会社の後継経験者(例えば、三好正一さん)と仲良くなってアドバイスをもらうことだろう。

 それにしても、ふたりの親子関係と国際ダリア園は、この先どのように変わっていくのだろうか? 鷲澤お父さんに残された時間は、あと5年~6年ほどだろう。康二さんには、そこまで忍耐強く働いてほしいと思う。そうした短いようで長い時間を無事に跨いでいかないと、日本のダリアは危機を迎えるかもしれない。

 そんな心配をしながら、ダリア園から大曲の花火大会の会場まで、わたしは宍戸くんのJEEPに揺られていた。