1979年2月24日、板橋の常盤台バプティスト教会で結婚式を挙げた。27歳のときで、わたしは法政大学経営学部の講師。かみさんは、東京銀行人形町支店勤務で20歳だった。友人たちからは、犯罪行為だと言われた。いわゆる「授かり婚」で、かつ結婚の形式は、皆さんが憧れる駆け落ちだった。披露宴の列席者も兄弟と友人たちだけ。出席者の平均年齢が25歳だった。
若かったから、先のことなどは何も考えていなかった。わが両親は呆気にとられて、なんらなす術がなかったようだった。翌年の7月11日に、長女の知海が「5か月の早産で」生まれた。その後はなし崩し的に、楽しい結婚生活がはじまった。いま2世帯同居の真継くん夫婦は、わたしたちとは異なる道を歩んでいる。
あのころとは、結婚に関する世間の空気感が変わってきている。長男の由君夫婦のように、結婚式前から同居を始めるカップルはいまやめずらしくない。次男夫婦は、わたしたちと授かり婚の形は同じであるが、結婚式の挙げ方や、双方の両親との付き合い方はもっとスマートである。
時はめぐり、いまの若者の方が、わたしなどより大人である。世間の常識をわきまえている。共稼ぎで子育てのオペレーションでは苦労しているが、神戸組(長男家族)も津田沼組(次男家族)も、そして京都人(長女)も、それなりに賢い生き方をしている。
昨夜は、43回目の結婚記念日の前夜祭になった。予定では、前夜祭は三郷の「焼肉きんぐ」に行くはずになっていた。東京マラソンまで、わたしがたんぱく質中心の食生活を強化する必要があるからだった。ところが、予約段階で「4人までの同席制限」を知ってしまった。家族6人で会食ができないことが判明した段階で、外食する気持ちが萎えてしまった。
そんなわけで、昨夜は焼肉店には行きそびれてしまい、自宅での夕食となった。かみさんとしてはめずらしく、「ハンバーグを作らいたい」と提案してきた。ハンバーグはわたしの十八番(おはこ)である。かみさんが台所に立って、合いびき肉をコネコネする準備段階で、わたしの役割はソースの製作になった。そのとき、3階の住人から、「食後にデザートを一緒にしない?」とグループLINE(津田沼組)からメッセージが飛んで来た。
ハンバーグの夕食が終わるころ、「そろそろ一階に下りて行っていいかな?」と真継君からの伝言。丁寧な連絡の仕方だったので、いつもとはちがう雰囲気を感じた。彼らは、翌日がわたしたちの結婚記念日だと知っている。そこがポイントらしかった。
午後7時30分すぎに、孫の穂高と夏穂が、騒がしく3階から1階に降りてきた。ふたりは、図画工作用に使いそうな小さな箱を抱えている。ダイニングテーブルの椅子に座って、本当に工作を始めた。持参した工作セットで、結婚記念の特別ケーキを組み立てはじめたのだった。
両親から、事前に知恵を授けられていたのだろう。このケーキが、わたしたちの43回目の結婚記念日を祝うためのものだと知らされていた。誕生日のお祝いでは、わが家では年6回、順番に家族が「ハピバースデーの唄」で祝福される。だから、ふたりともローソクに火を灯すのはお手のものだ。チャッカマンをとり出してきて、穂高は器用に点火する術を会得している。
一方の夏穂は、チョコレートの記念板を、ケーキの上にセットする役割を引き受けていた。彼女は、めずらく味覚が男性的だ。チョコレートもあんこも苦手である。それでも、遊びでケーキをいじる行為には、それなりに満足感を示す傾向がある。誕生日と同じ形式でお祝いするのだから、それは楽しいに決まっている。
つい忘れてしまいそうになるが、去年の冬の時期は、コロナが一旦収まっていた。次男家族とわたしたち夫婦は、第42回目の2月24日を、東京タワーの下にある「とうふ屋うかい」で会食していた。
わたしからの提案だった。子供のころから美味しいものを食べて、立派な料亭やレストランで会食を経験することが、子供の味覚や視覚を鍛えるものだ。わたしがそうだった。子供には充分にそれができなかったかもしれない。孫たちには、その不足分をとりかえしてあげたいと思っている。
わたしの両親は美味しいものを食べるために、市内の一流レストランや中華やさんに子供たちを連れて行ってくれた。4人の幼い子どもたちを温泉に連れ行って、わたしたちに大騒ぎされたことがあった。旅館の女将さんや女中さんに、平謝りしていたことを覚えている。わたしたちは、たちの悪い小さなギャングのような兄弟だった。
昨夜は、ケーキを食べてから、UNOではなくトランプを始めた。5人はババ抜きでおおはしゃぎをして、前夜祭はお開きになった。その間にわたしは、皆さんにLINEでメールをしていた。東京マラソンの準備のこと、新刊本の売れ行きのことなどを友人と情報共有していた。
ところで、本日は、寿司ダイニングすすむさんに、夫婦2人で出かけることになっている。すすむさんは、3回目のワクチン接種で副反応がひどくなり、一週間お店を休業していた。本日が再開の日になる。新刊本を渡すためでもある。7月に刊行されるすすむさんの本と、わたしの本をバーター(物々交換)する。日本で初めて、お寿司やさんがビジネス本を出版する。その企画を出版社に紹介してあげたのがわたしだった。
すすむさんは、並みの寿司屋さんではない。都内の進学校を卒業後、米国に渡り米国の大学を卒業した。その後は、マレーシアの寿司チェーン店でマネージャーを経験して帰国。寿司屋さんの両親の援助なしに、自力で高砂駅前で寿司屋を開業して、今に至っている。コロナの期間、わたしたち家族は、アルコールが提供できない時も、頻繁に通ってビアリー(0.5%のビール)を飲んでお店を応援してきた。
今日は、結婚記念日で、お店を利用させてもらうことになっている。すすむさんは、ひどい副反応からそろそろ回復していることだろう。ファイザー後のモデルナ接種は、副反応がきびしそうだ。