「花き産業、“準鎖国の時代”をどう生き延びるか?」『JFMAニュース』2021年12月号

 世界経済も日本社会も、ヒトとモノの移動という観点から、非常に困難な時代を迎えようとしている。第2次世界大戦後、冷戦の時代を挟んで、80年間近く続いてきた「自由に往来できる開かれた国境」の状態に、どうやら終止符が打たれようとしているからだ。この時代認識は、わたしだけのものではないようだ。

 

 今月号の『JFMAニュース』では、このところで3度目になるが、花産業を例に取り上げて、「準鎖国」(国境の部分的な閉鎖)を取り上げてみる。前回2度の時よりも、閉ざされた世界の分断という認識が、いまや現実味を帯びてきている。情報面では文化的なグローバリゼーションは状態になった。しかし、右肩上がりだった状況は一段落している。

 それとは対照的に、社会や文化、政治、経済、技術交流は、それとは対照的に準鎖国状態に向かっている。米ソ対立、米中の関係、東欧やアジアの状況を見てみるとよい。いまや協力や互助関係以上に、微妙な対立が状態になっている。それに輪をかけて、資源の奪い合いが始まっている。

 

 農産物や鉱物資源、水や海産物は当然のこと。電力の基礎になる太陽光や風力、その基礎となる土地やインフラの奪い合いがはいじまっている。豊かな国の間の戦いだけではない(東西問題)。対立や紛争は、再び南北問題を引き起こしている。

 そうした中で、わが花産業はどこに向かっていくのだろうか?

 

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「花き産業、“準鎖国の時代”をどう生き延びるか?」『JFMAニュース』2021年12月号
 文・小川孔輔(JFMA会長) V1:20211217

 

 先月号では、「江戸時代に回帰する?:花開くか、令和の園芸文化」というテーマで巻頭言を書かせていただいた。日本が海外に門戸を閉ざしていた時代に、江戸では園芸文化が花開いた。しかも長く続いた鎖国の期間は、停滞の時代ではなかった。
地震や飢饉にしばしば襲われたが、国内の経済は安定していた。園芸文化が花開いただけでない。歌舞伎や浮世絵などのエンターテインメント文化、寿司やてんぷら、鰻のかば焼きなど、和風ファストフードがこの時代に誕生している。農業の生産性は高まり、庶民の生活は豊かだった。
 令和の時代になり、グローバル経済に変調が見える。経済学者たちは、「米中間で経済のデカップリング(分断)は起こっていない」「保護貿易主義の台頭はデータからは読み取れない」と直近の『日経新聞』のコラム欄では主張している。しかし、製造業の国内回帰は鮮明である。現地調達のリスクと相対的な生産性を比較すると、1990年後半から続いてきた途上国からの完成品の調達は割に合わなくなってきている。物流コストの負担を考えると、この先は事態がさらに深刻になるだろう。

 

 花産業の未来を展望すると、同様な結論に至る。圧倒的な比較優位から、赤道直下で安い労働力による花生産はコスト優位が失われている。そして、生活者の花きへのニーズは、かつてのような単品大量生産からは逸脱する傾向を見せている。
 結果として、「日本の花産業は、“準鎖国の時代”を迎えることになる」というのがわたしの見立てである。準鎖国状態(国境の半分ほどが閉ざされる)が起こるのは、国際的なエネルギー資源が、化石燃料から再生可能なエネルギーへ転換せざるを得ないからである。
 花き類の多くは、飛行機で運ぶことできなくなる。これまで物流コストがネックにはならなかった海上輸送でも、運賃上昇でコスト負担に耐えられなくなれば、生産は国内に回帰するだろう。国内輸送もコスト高になるから、鉢物がそうだったように、切り花も消費地の大都市周辺部で栽培されるようになる。

 

 わたしが昨年から主張しているように、デイリーの使用で短茎で十分なら、倉庫型で多段式の完全閉鎖型施設で花を栽培する可能性が生まれる。「垂直農法」(都市部の多段階式植物工場)の強みは、供給が不安定になる気候変動リスクから逃れることができるからである。
 数年前までは妄想と考えられていた、都市周辺部での短茎の切り花を栽培する「工場生産」が実現する日がまじかに迫っている。すでに葉物野菜の栽培では、標準的な栽培技術が完成している。それを花き栽培に適応するだけである。
 この影響をもっとも大きく受けるのは、花の卸市場ではないかと思う。天候次第で花の品質と供給数量が大きく振れてしまうのを、価格メカニズムで解決してきたのがオークション(セリ)の役割である。基本的な前提条件を荷受会社は失ってしまうのである。もちろん、農村部で産地形成をして、共選共販売で事業を維持してきた花き農協も危機に直面する。
 花市場も大規模産地も、この先の10年の対応を考えるタイミングに差し掛かっている。