マラソンや駅伝の解説にしばしば登場する瀬古利彦さん。元オリンピック選手で早稲田大学の陸上部選手。SB駅伝部で監督を務め、いまはオリンピックのマラソン強化部長として活躍している。アールビース主催の「トークセッション」(@渋谷セルリアンタワー)でお目にかかることもある。しかし、解説者としては疑問符が付く人であった。
わたしの走りに決定的に不足しているのは、我慢することだった。瀬古さんのインタビュー記事を読んで、改めてそのことに気づいた。わかってはいるが、本質を理解していなかった。マラソンとは、調子がよくて先に行きたくても、行ってはならないストイックさが大切な競技なのだった。
速く走ることを目指しているだけでは、結果として速くはなれない。ペース配分が大切なことを頭ではわかっていても、実際のレース場面では、周囲の流れと自分の都合に引きずられて先に行ってしまう。忍耐は必要だが、ほとんどのランナーはその本質が理解できていない。
それができるのが、超一流のランナーなのだった。
瀬古さんの言葉。「マラソンランナーというのは普段から自分を抑える練習をしなければならない。食欲、性欲もそう。私は食事制限とか得意だもの。腹減っているけど我慢する。食べ物が目の前にあっても食べない」
強烈な物言いだ。わたしにはできないことだ。瀬古さんは自信をもって、「腹が減っても食べない我慢ができる」と言い放つ。ここがランナーとしての心構えのちがいだ。その確実な積み上げが、レースでは良い結果をもたらしてきたのだろう。
しかし、先日の箱根駅伝を見ていると、いまの若い選手たちは、タスキを受けるとどんどん先に行っている。それでいて、後半10KMにさしかかってもペースが落ちない。どうしてそれができるのだろう。田崎さんのインタビュー記事を読んで疑問に思ったのはその点である。
瀬古さんの世代といまの若者ランナーの間に、なにか大きな断絶があるような気がする。肉体的な鍛え方と、精神的なものとが分離できているのでは?答えは、青学の原監督が持っているのかもしれない。今後は注意して、原監督の発言をチェックしてみることにしよう。
それにしても、新春からブログでマラソン談義が多いのは、走りに集中できているからだろう。来週から、公式レース復帰になる。1月19日(日曜日)は、赤羽ハーフと高槻ハーフにダブルエントリーしている。走れるのはどちらかだけ。もし、誰かにどちらかのレースを走ってもらったら、記録上はどのような扱いになるのだろう。
ひとりの人間が、同じ時間にふたつのレースをはしっていることになるのだが。最後に、話が違う方向にそれてしまった。田崎さんの記事で、瀬古さんの心の在り方を見直すことになった。
この二度目のマラソンは2時間15分0秒で5位に食い込んでいる。翌78年12月の同じ福岡国際マラソン、2時間10分21秒で優勝。瀬古は日本陸上界に現れた新星として認められることになった。
その過程で瀬古は自らの適性に気がついた。
それは我慢する能力である。
「マラソンランナーというのは普段から自分を抑える練習をしなければならない。食欲、性欲もそう。私は食事制限とか得意だもの。腹減っているけど我慢する。食べ物が目の前にあっても食べない。例えば羊かんを1センチ(の厚さに切って)食べようとするじゃないですか。でもそこで5ミリしか食べない」
つまり、頭の中で1センチの羊かんを食べると想像しながら、そこでわざと半分である5ミリの厚さに切ることができるか、である。
「そういう我慢ができる人じゃないと、マラソンのコントロールはできないんです。マラソンって誰でもできる競技じゃない。もちろん肉体的、運動能力的にできるかできないかというのもある。それに加えて心が大切」
瀬古はそういうと胸をどんと音が聞こえそうな勢いで叩いた。
「筋肉と心、2つがないとマラソンランナーにはなれないんです」