全国の習慣とは異なり、東京は7月がお盆(新盆)になる。先週の13日がお盆の入りで、送り日は16日だった。昨年から都民に復帰したかみさんは、6年前に亡くなった実妹や父親のために墓参りを欠かさない。近くのお寺まで写経の会に通っているくらいで、宗教に冷淡なわたしとはちがい、信仰心が半端ではない。
彼女の熱い信仰心は、わたしにとって尊敬の対象である。わが父が亡くなるまで、自宅に仏壇がなかった小川家(@秋田県能代市)とはちがい、奥村の家(@葛飾区立石)はいまでも宗教行事を大切にする。立石にあった奥村家の旧宅では、仏壇からお線香が絶えることがなかった。三人の子供たちも、「立石の匂いがする!」とお線香で奥村の家を認識していた。
近くに柴又帝釈天があるからではないだろう。この町(葛飾区高砂)に移り住んでからは、千葉の新興住宅街を歩いているときにはなかった匂いに遭遇している。例えば、新盆に入ってからのこと、柴又帝釈天までの通りを歩いていると、お香の匂いが漂ってくる。わたしたちにとって、それは懐かしい奥村の家の匂いである。
わたしは子供のころ、4歳から6歳までの3年間、母の実家に預けられた。ばあちゃんの珍田サンは、わたしを孫としてはなく、実子のようにかわいがってくれた。大きな大黒柱と立派な土間のある農家で、秋田の県北では大きな地主の家のひとつだった。伯父の珍田武蔵が山本町の収入役をしていたので、土地改良の事業などに積極的に乗り出していたからだった。
珍田の家には、大きな仏壇があった。結婚式や葬儀ができるくらい広々とした座敷があって、その隣が仏間になっていた。続きの間は特別な場合でないと使わなかったのだが、その部屋に入ると独特な匂いがした。
仏壇がなかった能代のわが家とはちがって、線香の匂いが立ちのぼっていたにちがいない。先週、ふとしてことで、そのことに気づいたのだった。人の記憶は街の匂いを媒介にして、60年の時空を超えて過去の時間に戻っていく。夢からさめたような不思議な感覚だった。
言われてみれば、街には匂いがある。日本の空港に降り立った外国人は、関空や羽田の空港で醤油臭いにおいを感じとるそうだ。上海や北京空港では、中華料理の素になっている豚骨のスープのような臭いに、鼻をつまんで息を詰まらせたことはないだろうか?韓国の空港は、コンコースを歩いているとキムチの匂いがする。
日本にいても、似たような経験をすることがある。たとえば、イケアの店舗に入ると、外材を使った木製品から放たれる香りや、ペイントに使われている香料で、米国に住んでいたときの記憶が蘇ることある。その瞬間、瞬間的に過去の時間にタイムスリップする。楽しかった昔の時間に、自分が戻りたくなるのだと思う。
いつかこの町になじんでしまえば、街の匂いも日常になるのだろう。いまもこの町は、いまや日本の商店街から消えてなくなった懐かしい昭和の匂いがする。70歳を超えた老人たちが商う、揚げ物屋や雑貨屋などが表通りにあるだけではない。路地裏には、豆腐屋やお稲荷やさんなどのも残っている。じいさんやばあさんが揚げてくれる、コロッケやとんかつが美味しいからだろう。商売として十分に成り立っている。新参者のわたしたちも、すぐに常連さんとしてなじんでしまう。
住所は東京都なのに、葛飾区はどこか田舎の匂いがする。実際に民家の庭では、花や野菜を栽培されているようなのだ。畑とも庭ともつかない場所からは、母の実家のかやぶき屋根や漆喰壁に沁みついていた堆肥の臭いが漂ってくる。その臭いは、秋の収穫祭の「ささら踊り」(仮面は、ナマハゲの様をしている)のおどろおどろしい光景を想起させる。
珍田の家では、夏が終わると収穫の秋がやって来た。そういえば、収穫後にもみ殻を焼く煙りが、田んぼから村中に流れてきた。その刺激的な煙にむせて、目ん玉がしょぼしょになったものだ。だから、煙が目に染みる感覚は、もみ殻を焼く匂いと堆肥や糞尿の匂いと混じって記憶されている。
この町に移ってから、忘れかけていた農家の匂いと、総菜やさんの揚げ油の匂いや、パン屋さんから漂ってくる香ばしい発酵したイーストの匂いを復元できた。農業と商業が同居していた「昭和の町」に戻ってきたのだ。下町の縁辺にある葛飾区生活の快適さは、どうやら心地よい匂いの記憶とつながっているように思う。