【短期ブログ連載】 「なぜ地方の小さなかばん屋が、日本一のランドセルメーカーになれたのか?(その1)」

 先週の土曜日(9月30日)、島田市で静岡30KMを走った後、「池田屋」の二代目社長さんをインタビューした。池田屋は、全国的に名前が知られたランドセルメーカーである。予想通りで、池田浩之さん(66歳)は、ユニークキャリアをお持ちのベンチャー起業家だった。発想も抜群におもしろい。

 このインタビューのきっかけは、孫の紗楽(さら)ために大阪で購入したランドセルが池田屋のものだったからである。前後の詳しい事情は、7月2日のブログ「池田屋のランドセル」で紹介してある。
 池田屋は、消費者と職人の間に立って、オリジナルのランドセルを作っている製造小売業である。長い時間をかけて改良を加えたランドセルは、高品質で使い勝手がよい。そして、同社が地方の小さな小売店から全国区のメーカーに育っていくまでの経験は、地方で奮闘するメーカーや独立小売店に、希望と勇気を与えてくれる。
 この原稿は、とくに事前に発表の場を用意していたものではない。そこで、ランドセルの「池田屋」の企画は、本ブログで短期連載として発表することにした。
 本日は、「その一」である。
  
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「なぜ地方の小さなかばん屋が、日本一のランドセルメーカーになれたのか?(その一)」
 文・小川孔輔(法政大学大学院・教授)
    
 <池田屋の創業のころ>
 「静岡のランドセル屋さんを取材するんだけど、インタビューに同席してみない?」。地元でマーケティング企画会社を経営している元大学院生の杉山浩之君に電話したのは、「池田屋のランドセル」のことをブログに書いた直後の7月2日だった。旧清水市(現、静岡市清水区)生まれの杉山君は、地元でカバンを売っている池田屋(一号店)のことをよく知っていた。
 「吉田カバンなんかを早くから品揃えしていて、若いころはよく池田屋に通っていましたよ。まさか全国的に有名なランドセルメーカーになっているなんて」と、わたしの誘いに彼は怪訝な反応を示した。商品の説明がていねいなのはよいが、商品を売り込もうとする接客のスタイルに、消費者としてやや引き気味になることがあったらしい。
 杉山君が子供のころ、池田屋は旧清水市(1950年創業)と静岡市(1984年出店)で2店舗。地方都市のアーケード街でブランド品を並べて売っている、なんの変哲もない町のカバン屋だったらしい。ところが、いまや押しも押されぬ日本一のランドセルメーカーに変身していたのである。
 杉山君がびっくりするのは当然で、静岡県民にとって、池田屋は「かばん屋」(小売店)であって「ランドセルメーカー」ではない。二代目経営者の池田浩之社長が、ランドセルの企画販売に事業を集中させたから実現できた成功への道のりである。ただし、日本一のランドセルメーカーが誕生するのは、池田屋が15年前(2003年)に銀座に出店してからのことである。事業を継承した池田さんは、3、4年後にランドセルの改良に着手する。毎年少しずつ進化していった池田屋のランドセルが、オリジナル商品として認知されるまでには、さらに10年ほどの期間を要したからである。
     
 <修理が得意なカバン屋さん>
 静岡市内に二号店を出店した35年前、2店舗のかばん屋が入学前の2~3か月ほどで売るランドセルはせいぜい600本。値段も当時は1本が約二万円だった。いまのプレミアムブランド品(約6万円)の約3分の一である。ランドセルで稼げる金額は、ワンシーズンで1200万円ほどである。季節商品でもあるし、売上への貢献はそれほどでもなかったはずだ。
 ところが、春先に販売したあとでも、池田屋には修理品がたくさん持ち込まれた。その中には、他社が販売したランドセルも混じっていた。なぜなら、池田屋に持ち込めば、きちんと修理をしてくれることが口コミで知れ渡っていたからだった。ちょうどランドセルの素材に、人工皮革(クラリーノ)が登場したころである。
 革のランドセルは接着だけでも6年間は剥れないが、人工皮革では接着力が弱いため縫製が必要になった。今までの職人の常識が通用しない時代が到来したのである。大量に持ち込まれる修理品を前にして、池田さんは考えていた。
 「職人は作ることに専念していて消費者の意見は聞けない。自分は消費者に密着していて、作り手側の事情もわかっている。だから、理想のランドセルを作れるのは自分なのではないのか。作る人の気持ちと使う人の気持ちを融合したランドセルを作ろう、そうすればもっと大きな商売が出来るはず」。
      
 <ランドセルの部品を改良する>
 きっかけは偶然だった。ランドセルメーカーとして最大手の「セイバン」の元専務(逝去)のところに、自社の製品を改良したいとの思いから、池田さんがアドバイスをもらいに出かけたことが始まりである。小売店がメーカーに直接出向くことはめずらしかった。
 専務と意気投合した池田さんは、セイバンと共同でランドセルの改善チームを作った。最初に手がけた部品は、袋掛けのV字フックである。
 小学校に入学したばかりの一年生はまだ力がない。ランドセルの横にぶら下がっている袋を外すときに、「バネが硬くてヒモが外せない」という子供が出る。この問題を解決するために、フックの先端にV字の切れ込みを入れて、袋を掛けるときも外す時もフックにヒモを掛けるだけにしたのが、「池田屋フック」である。
 フックに小さなV字の切れ込みを入れるために、新たに金型を起こさなければならなくなった。ちょっとした工夫でランドセルは使いやすくなるのだが、「それだけのことで、金型代は100万円もかかりましたよ(笑)」(池田さん)。ふつうは小売店がする仕事ではない。メーカーと一緒に取り組まないとできない試みである。
 池田さんは、自社の業態を「商品開発企画会社」と呼んでいる。ランドセルを作ってくれる「OEMメーカー」と一緒に、子どもにとってランドセルを使いやすいものに変えていったのが、町の小売店から全国メーカーに転身した池田屋の歴史である。
 その後の細やかな工夫は、池田屋のランドセルカタログ(「子ども思い」)で詳しく知ることができる。たとえば、理想のランドセルを作るために、素材として牛革と人工皮革を組み合わせて使うという発想がそれである。牛革は強度に優れるが水に弱い。人工皮革は強度に劣るが軽量で水に強い。だから、人工皮革モデルであっても、池田屋のランドセルでは、ベルトには牛革を使用する。強度を考えて素材を選ぶなどの工夫をしている。その逆もある。
      
 <かばん屋の息子、写真家を目指す>
 ランドセルの池田屋のことを別の元大学院生に紹介したところ、早速に池田屋のホームページ(https://www.ikeda8.com/)にアクセスしてくれた。彼女の第一声は、「ホームページの写真、センスがよくて素敵ですね」だった。ランドセルを背負っている子供たちの写真がたくさん写っているが、画像が美しいのは当然なのである。池田さんは元カメラマンである。
 1952年に静岡で生まれた池田さんは、高校卒業後は上京して日本大学芸術学部でカメラマンを目指した。大学を出た後はフリーのカメラマンを経験したあと、アクセサリーを手作りして原宿の雑貨店に卸す仕事をしていた。池田さんの経歴からは、あの時代の雰囲気がよく伝わってくる。もともとサラリーマンになるつもりはなかったらしい。
 「勤め人になるより、商売人になったほうが稼げますよ。親父の商売を見ていたらわかります」(池田さん)。
 カバン屋の息子らしく、その後の二年間は、浅草のハンドバッグの卸問屋で働いた。販売の腕を見込まれて、池袋パルコの店長として引き抜かれた。大阪パルコでも店長を務めたあと、結婚して子供ができたのを機会に静岡に戻った。かばん屋の息子に戻ったのが28歳の時である。
 短い期間ではあったが、フリーカメラマンの経験も、アクセサリーを製造販売する仕事も、現在のランドセルメーカーの成功につながっている。職人技への理解や製品改良の工夫は、このときに身に着けたものである。池袋や大阪のパルコ店長の経験は、接客の仕方や展示会開催でランドセルを販売するキャンペーンに活きている。
            
 その後の事業展開は、ブログの後半で紹介することにする。(後半に続く)