秋田へ帰省#5: また会う日まで

 本日のブログを書くことは、わたしにとってつらい作業である。なぜなら、2泊3日の帰省で、加藤との約束をすべて果たしてしまったからだ。二中の同期会へ50年ぶりの出席。昭和44年に敢行した「岩館キャンプ地」での仲間と再集結。しかし、同じメンバーと同じ場所にふたたび戻ってくることはむずかしいだろう。いまはその寂寥感に苦しんでいる。

 

 わたしは、生まれてから66年間、常に前を向いて走ってきた。どのような厳しい環境に置かれても、これまで一度も後ろを振り返ったことがない。しかし、今度の秋田への帰省では、「年齢の壁」という現実を直視せざるを得ない場面に何度も遭遇した。

 8月11日の夕刻からの同期会では、65人の仲間たちと歓談できてとても楽しかった。顔と名前がほとんど一致はしなかったが、それでも3年間、同じ町で過ごした同級生たちである。どこかで、共通の話題や互いの知り合いとはつながっている。会話に苦労することはなかった。
 翌日(8月12日)は、キャンプの中核メンバー5人と、五能線の岩館キャンプ地を再訪問することができた。昭和44年8月1日~2日にテントを張った場所を、加藤が事前に調べてくれていた。49年前と同じ場所で、しかも同じ並びで5人はカメラに収まった。元気なおじさんたちではあるが、それでも10年後にこの場所に戻ってくることはできないだろう。

 

 加藤が事前に組んでくれた行動計画は、午後2時にすべて終わった。

 わたし以外は、能代市内か秋田県内に住んでいる。昼前に「ぽんぽこ山」(北能代)の駐車場に各自が運転してきた車を停めて、4人(加藤、瀬川、小熊、小川)が楊のフォルクスワーゲンに乗り込んだ。県境のドライブインで、お目当ての焼いかや岩がきを食した。八森の「はたはた館」も見学した。いまでは珍しくなった「コーヒーフロート」を注文して飲んだ。

 当初の計画が完了したので、4人は楊のワーゲンから降りて、停めてあった自分の車に乗り込んだ。
 「また、近いうちに会おうな。こすけ、東京に行くことがあるから、かならず連絡する。携帯の番号?加藤から聞くから、、、」と楊がめずらしく自分からわたしの連絡先を聞こうとした。楊とは35年ぶりの再会だった。杏林大学で研修医だったころは、しばしば飲むことがあった。それが、なぜか疎遠になっていた。
 秋田でわたしの講演会が開催されると、加藤だけはときどき会いに来てくれていた。それ以外は、瀬川や小熊とも会うのは20年ぶりになる。仕事や子育てで、それぞれが忙しかった。ようやく5人が一緒に会うことができたのだった。正月の年賀状に一言添えてくれた加藤に感謝だ。

 

 「謹賀新年 今年もよろしくお願いします。平成30年元旦」
 紋切り型の文面の下に、手書きつぎのように書いてあった。

 

 「毎月の「東京下町発、、、、」を楽しみにしています。
  何回まで続くかは分かりませんが、その内に高校時代の話も頼みます。
  今年は旧交(キャンプ仲間)も深める宴を考えています。皆さん
  そろそろ危うい年代に達していますので。楊と小熊にはたまに会います。」

 

 「東京下町発」とは、わたしが地元紙(北羽新報)に毎月連載しているコラムのことである。今回の第二十期同期会出席も、キャンプ地再訪も、加藤が元旦にくれた、一葉のハガキがきっかけだった。

 

 それぞれ固く握手を交わし、軽く手を振って駐車場で別れた。もしかすると、この先は二度と会うことができなくなるかもしれない。わたしだけは、加藤の車で実家まで送ってもらった。午後2時半。

 「申し訳ないから、自分の足で電車かバスで秋田空港に行くから」というわたしを、加藤は空港まで送ってくれるという。涙もろいわたしは、二人っきりになって別れを言うのがつらいのである。でも、せっかくだから、加藤の申し出を受けることにした。

 秋田空港までは、90分のドライブだった。実は湿っぽくなるどころか、それはそれでふたりでの会話はおもしろかった。何を話したかって? それはふたりだけの秘密だ。つまり、わたしが知らないその後の友人たちのことなどを、わたしから根掘り葉掘りたずねてみたのだ。

 みんなの中心(ハブ)にいる加藤は、想像通りに情報通だった。だから、加藤が健在である限りは、むかしの仲間たちとはどこかで会うことができるかもしれない。