日本マクドナルドの復活劇、もう一人の立役者

 昨日(6月2日)、東洋大学白山キャンパスで開かれた「日本フードサービス学会」で、日本マクドナルド代表取締役副社長(兼COO)、下平篤雄氏の講演を聴講させていただいた。友人の河南順一氏(同社・コミュニケーション本部)からのメールがきっかけだった。

 

 下平副社長の講演タイトルは、「日本マクドナルドのFCビジネス」だった。フードサービス学会の会員以外に、学会所属の20の大学・大学院などの学生さんたちが250人ほど聴講していたので、会場の大教室には、400人ほどが詰めかけて講演は大盛況だった。
 ちなみに、下平副社長は、1978年に日本マクドナルドに入社した生え抜き社員である。日本マクドナルド創業者、藤田田氏の下で、日本のフードビジネスの土台を作ってきた人である。そのことが、フランチャイズシステムの再設計に挑んだ10年間(2008年~)の取り組みを説明した部分でよくわかった。

 

 下平さんの講演は、学部の学生さんたちに向けて、実にわかりやすいFCビジネスの解説だった。稀代の起業家レイ・クロックが、1955年にマクドナルド兄弟が生み出したビジネスをフランチャイズ化して米国内に広げていったこと。そのフランチャイズシステムを、1971年に日本に導入した藤田田氏が、日本国内にマクドナルドの店舗を広げていったプロセスの全貌。

 これを4期に分けて発展段階を説明していた(*メモをもとに書いているので、以下の時代区分は下平講演と同じではない)。
 ・第1期(1970年~) 新しい食文化の創造
 ・第2期(1980年~) 車社会の到来(郊外化、ローカル出店)
 ・第3期(1990年~) ドライブスルー市場(サテライト店舗、市場の飽和)
 ・第4期(2000年~) オーナー・オペレータ不在の時代(藤田田氏の引退)
 株式上場後にBSE問題が発生して、日本マクドナルドの低迷が続く。そこから、原田泳幸前社長が登場して、積極的なマーケティング戦略とバリュー価格路線に転じる。その後、成功と失敗の物語は、拙著『マクドナルド 失敗の本質』(東洋経済新報社、2015年)に詳しい。解釈は異なるが、事実は同じである。

 

 下平さんの講演の最後は、2015年に転出していたメガフランチャイズ企業(クオリティフーズ@新潟)から本部に戻ってきてからの改革の話だった。
 下平さんは、2015年以降のFC改革を「第5期」と呼んでいる。営業のトップとして実行しようとしていることは、藤田田氏のあとで不在になった「オーナー・オペレータ」(約3800 店舗のオーナー)を、地域分権化(全国を3つの地区に分割)と「地域オーナー・オペレータ」(10店舗以上のオーナー)の育成で乗り切ろうとする施策である。これは、ローソンのMO制度(マネジメント・オーナー制度)によく似たシステムである。複数店舗を経営する企業家的な加盟店主(オーナー・オペレータ)を育て、それを日本マクドナルドのビジネスの核にするのが狙いである。

 下平副社長の講演を聞いていて、マクドナルドの加盟店施策は成功するだろうと確信が持てた。2007年頃に始まった急速なFC化は、原田時代の事業の低収益性に対する対応施策だった。その方向性は間違ってはいなかったが、やり方とスピードに無理があったのだろう。しかし、下平氏が新宿の本部に復帰した2015年から状況は変わったと思われる。

 

 基本路線は、「地域に根差したビジネス展開」である。改革の3つの柱(エッセンス)は、①店舗体験の改善(CS)、②人材の育成(ES)、③地域社会への貢献である。
 先月、日本マクドナルドを離れることを表明した足立光氏(CMO、P&G出身)の活躍がメディアでは取り上げられることが多い。しかし、フランチャイズビジネスを支えているのは、二つの経営機能である。すなわち、マーケットの側に、商品展開と消費者マーケティングが、店舗運営組織の側に、フランチャイズシステムが存在している。FCビジネスでは、このふたつの車輪が有効にバランスよく稼働していることが必要である。
 下平氏は、二番目の車輪を動かす司令塔として役割を担ってきたのである。今回のマクドナルド復活劇のもうひとりの立役者だったことは間違いがない。ただし、この「真のFCビジネスへの転換路線」はいまだ道半ばである。それは、日本マクドナルドの幹部社員も認めているところである。しかし、個人的には、その成功の可能性はかなり高いと思う。