舞妓はレディー、16歳(下)

*昨夜の<上>からの続きです。
授業の打ち上げは、9時にお開きとなりました。そのあとは、西尾先生のお導きで、宮川町のお茶屋さんに寄せてもらうことになりました。先生たちの二次会がお茶屋さん、というのはなんか京都っぽいですね。

 

 三条の鴨川沿いを下って宮川町まで、5人で歩きました。またしても、 男さんが女子4人に囲まれて。そよとした風はありますが、ちょっと蒸し暑い。典型的な夏の盆地の夜です。

 そぞろ歩きが終わって、細いまっすぐな路地に入りました。「ここが宮川町です。京都花街、四か所のうちのひとつ」と西尾先生が解説をしてくださいました。祇園以外に3か所あるのですね。普通の人は知らないことです。

 地面に点々と灯篭が灯った暗がりの両側に、こじゃれた料亭なのでしょうか、飲食店などのお店が軒を連ねれています。道の先にたどり着いた場所は、あれ? モータープール(駐車場)のような「ビアガーデン」ではないですか!予想していた展開とはちがっています。

 すぐに理由はわかりました。西尾先生の生徒さんたちが、このビアガーデンでアルバイトをしているのです。舞妓さんがサービスをしてくれる珍しいビアガーデンのようです。この蒸し暑さの中、着物で働くのは暑苦しいのでは?心配になります。

 店長さんに挨拶を終えた西尾先生が、すぐに戻ってきました。「それでは、、、」。先の角を左に折れると、お待ちどうさまの風景が開けています。玄関に、「花傳」という四角い灯篭と、屋号のマークを描いた提灯がかかっています。

 

 「ごめんくださいませ」。西尾先生が玄関の戸を引いて、家の中のひとに声を掛けました。どなたも出てきません。三度呼んで、ようやく男性のかたが、上がり框(かまち)で迎えてくださいました。

 西尾先生は、日本でただ一人の「京都花街の人材育成」を研究している学者さんです。ご著書に、『京都花街の経営学』(東洋経済新報社、2007年)、『舞妓の言葉』(東洋経済新報社、2012年)があります。

 もちろん、先生はおなじみさんです。まるでご自宅に戻ったときのように、お茶屋さんの方が出迎えてくださいました。「いらっしゃいませ」が、まるで「おかえりやす」のように聞こえました。

 玄関から案内されて奥の部屋までは、神楽坂の料亭で見られる造りになっています。ウナギの寝床、古い木の作りです。わたしには、この感じがなんともなく懐かしいのです。幼少のころ、秋田の呉服屋で育ったせいだと思います。

 廊下の突き当りが、コの字型のカウンターのお部屋になっていました。お客さんは、こたつのような席に足を延ばして腰かけています。和風のカウンターバーの感覚です。

 カウンターの真ん中にひとり、白くおしろいを塗った舞妓さんが座って、二人連れの男性客と話しています。常連さんらしいです。というか、一見さんはお断りの世界だから、わたしたち以外は常連さんのはずです。

 わたしたちは、ふたりの常連さんの反対側に腰かけました。お相手してくださる舞妓さんの名前は、菊弥江さん。金沢生まれの16歳。中学生の修学旅行で舞妓さんを見て、「卒業したら、舞妓さんになりたい!」。そう思って、インターネット経由で、「花傳」を探したそうです。そんな時代なのですね。

 そこに、花傳のおかみさん、武田伊久子さんが現れました。「この子(菊弥江さん)のときは、16人が研修所に入って11人が舞妓さんになりはった」(おかみさん)。

 16人を受け入れて11人がデビューするのは(打率7割)、京都の花街としては、きわめて異例のことらしいのです。西尾先生の解説によると、「この頃は、十数人が入ってきて、実際にはひとりかふたりしかデビューできない」らしいのです。菊弥江さんの年次は、特別な年だったようです。

 

 西尾先生から、しばらく京都の花街の仕組みの講義していただきました。15歳で田舎から出てきて、菊弥江さんのように「仕込みさん」(見習いさん)になります。お茶屋さんに住み込みになるわけです。

 お姉さん(先輩の舞妓さん)と一緒の部屋で暮らしながら、一年くらい修行を積んだあと、16歳~17歳で舞妓さんとしてデビューすることになります(この辺の事情は、西尾先生の著書に出ています)。

 すごいのは、髪形を崩さないための努力です。洗髪は一週間に一度だけ。部屋で眠るときも、新幹線や飛行機に乗るときも、髪形が崩れないよう、自由には首が回せないらしいのです。だから、とても辛抱が強くないと舞妓さんにはなれないのです。

 仕込みさんから舞妓さんデビューまでは、歌や踊りや三味線などのお稽古もあります。慣れない京都の生活、慣れない芸事の修行など、まだ高校生の年齢ですからつらいでしょうね。そして、舞妓さんとしてデビューになります。舞妓さんでいる期間は、2年とか3年なのでしょうか。

 娘の知海(ともみ)は、ホテルグランヴィア京都で、10年近く宴会を担当していました。お客さんからのリクエストで、舞妓さんや芸妓さんをホテルの宴会に呼ぶ立場にあったのだそうです。なので、彼女たちの生活をよく知っています。

 舞妓さんの食事は、一日二食だそうです。午後2時ごろと、お座敷から帰ってからの夜中になります。お座敷に呼ばれていると、その間は食事ができないのだそうです。

 菊弥江のような食べ盛りの娘さんは、お仕事の最中にお腹が空くらしく、バンケット担当だったともみが言うには、「ホテルの方で、舞妓ちゃんのために、ジュースとサンドイッチを準備しておくんですよね」と説明していました。

 菊弥江さんは、それを聞いて、「そうなんですよ。サンドイッチ、美味しいんです」と答えていました。とにかく、彼女の受け答えが、とっても自然ですてきなのです。

 言葉のつなぎで、「おたのみもうします」と言われると、なんとも不思議な気もちなります。その中心にあるのは、「この娘を贔屓にしてあげたい。かばってあげたい」という親心のような気持ちなのだと思います。

 ところで、数年後(二十歳くらい)には、舞妓さんは芸妓さんに昇進することになります。芸妓さんになると、お茶屋さん(置き屋さん)から出て独り立ちするわけです。独立自営業者になるわけですね。

 16歳の菊弥江さんが、そんな仕事の話をわたしたちにくださるのです。信じられないくらい静かに堂々と。どうしてこんな風に自然に会話が続くのか、ほんとうに不思議です。教育の成果なのか。それとももって生まれた気質なのか。その両方でしょうね。

 ちなみに、菊弥江さんがわたしたちと話している間に、京都女子大の教授先生が、さきほど帰って行った常連さんの席に座りました。東京から戻られて、ちょっとだけ息抜きに寄ったらしいのです。西尾先生の同僚のかたでした。

 お酒とおつまみと会話で、5人は二時間ほど過ごして、帰り支度になります。お代金は、ひとり一万円を切るくらい。タクシーを三台、呼んでもらいました。

 女将さん、舞妓さん(菊弥江さん)、芸妓さんが玄関までお出迎えに出てくださいました。芸妓さんは、お名前を失念しましたが、西尾先生の著書の中に、舞妓さん時代の写真が出ている方です。

 お茶屋さんには、西尾先生の著書が置いてありました。10年ほど前の、まだ初々しい写真です。いまは貫禄があって、なんか堂々としています。そうか、舞妓さんがこうして立派になっていくのだ。納得しました。

 京都宮川町のお茶屋さん、「花傳」。西尾先生のご紹介で、これにて一見さんではなくなったわけです。おなじみさんになると、ずいぶんと暮らしやすい町。京都は、やはりそんな町なのですね。

 それにしても、はじめてまじかに見た舞妓さん。その立ち居振る舞いが、すばらしいです。実に感動ものでした。