義父・奥村正太郎、7回忌

 義父が喉に餅を詰まらせて、江東区の墨東病院に担ぎ込まれたのは5年前の元旦だった。ニュースで報道されてることが、身近で本当に起こった。実感もある。年を重ねると食道や気管支が狭くなる。大きな食べ物の塊が呑み込めず、喉に詰まらせてしまう。義父の場合がそれだった。

 

 佐野厄除け大師にお参りに行っていて、車を運転しているときに顛末を知らされた。錦糸町近くの救急病院に駆け付けたときには、すでに息が絶えていた。心臓弁膜症のオペがうまくいかず、車いすになってからで10年。最後は、80歳を超えていたはずだ。

 腕の良い旋盤工で、あの時代に技能オリンピックでもあれば、チャンピオンになっていたにちがいない。50歳くらいで精工舎を退職してあとは、自宅を改造して工場にしていた。精密航空部品の切削・研磨を下請けしていた。米国のボーイング社の航空部品だったようだ。詳しくはわからないが、工場には細かな設計図が置いてあった。

 

 義父のこどもは、すべて女子で三姉妹だった。ところが、孫の代になると男子が優勢になった。うちの男の子や従弟たちが小さいときは、自宅の工場で3人乗りの自転車を作てくれた。中心軸になるパイプの成型などはお手のもの。工場の前は路地裏になっていたから、子供たちはその自転車を足でこいで、きゃーきゃー遊んでいたものだ。

 精工舎の職場の野球チームではキャッチャーだったらしい。三姉妹のひとりでも男子だったら、庭でキャッチボールでもしたかっただろう。男女比率が1対4の家庭にあっては、義父の主張はなかなか通らなかっただろう。しかも、神経質で胃腸が弱かった。

 「精工舎のころは、いつも胃薬がはなせなかった」とは、うちのかみさんのコメント。

 

 義母に確認してみなければならないが、おそらくは正太郎さんは近眼ではなかったはずだ。数ミクロン単位での金属切削が得意技だったから。溶接の際に光を遮るための工作用眼鏡を頭上にかざして、義父は男子の孫たちをうれしそうに眺めていた。

 それから20年後、バブル崩壊と製造業の海外移転で、下請けの仕事が減り始めた。とうとう工場をたたむことになった。借金もあったので、立石にあった自宅を売却して高砂に移った。そのときには身障者になっていた。

 

 しかし、車いすになってからの義父は、角が取れて性格がおっとりしていた。そして、静かにこの世から去っていった。

 今日は、立石の南蔵院で7回忌が執り行われる。親戚が集まる。つぎは13回忌。わたしたちが生きているかどうか。黙とう。