【再掲】 豊顕寺の桜吹雪: 美代子おばさんのこと

 桜のころになると、美代子伯母のことを思い出す。4年前の4月3日に、ブログに掲載したエッセイである。豊顕寺は、伯母の菩提寺で、横浜にある立派なお寺だ。昨日、花見ランの途中に、客員教授の平石さんに送ったところ、ブログで引用してくださった。



 「豊顕寺の桜吹雪: 美代子おばさんのこと」(2012年4月3日、初出掲載)

 伯母の寺尾美代子が亡くなって、23年になる。短い闘病生活の後で逝ったのは、わが家が白井に引っ越してきた直後だった。ご主人の寺尾保之助との間に子供ができなかったので、お墓は寺尾の従兄弟が守っている。菩提寺は、横浜の豊顕寺(ぶげんじ)である。
 桜が咲くころになると、なぜか美代子おばさんのことを思い出す。横浜の豊顕寺は、こんもりと木々が繁った森の静寂の中にある。いまごろになると、満開の桜で美しくなる。
 時間ができたので、今日は横浜までドライブしようかと思っている。まだ3分咲きほどだろうが、墓参りを兼ねての観桜会である。大嵐がくるらしいので、午前中に墓参りを済ませるつもりだ。

 わたしは、学生時代に東急東横線の都立大学前に住んでいた。八方寮といって、慶応大学の学生がほとんどのアパートだった。この学生寮に潜り込ませてもらえたのは、美代子おばさんの口利きだった。縦長の4畳の部屋で、立教大学の村上春樹くんが隣室に住んでいた。慶応大学の学生20人ほどに交じって、他大学の学生は村上くんとわたしだけだった。
 青森高校卒の村上くんは、若くして命を絶った太宰治に心酔していた。太宰は村上君にとっては、郷土の英雄である。彼自身も作家になりたくて小説を書いていた。彼からの最後の便りによると、卒業後は地元に帰って、中学か高校の先生になったはずである。
 一度、夏のねぶた祭りのときに、ご実家に泊めていただいたことがある。蒸し暑い青森の夜、笛と太鼓と踊りの喧噪。ねぶたのお囃子の、ラッセー、ラッセー、ラッセー。街中を練って歩いて、若い衆が飛び跳ねる。その祭りの案内役をかって出てくれた。
 その数年後に、村上春樹という作家が華々しくデビューした。もしかして、青森の村上くんではないかと一瞬思ったものである。作家の村上春樹のほうは、早稲田大学の卒業生。同名同姓と判明して、少々がっかりしたものだ。青森の村上君の小説も何度か読ませてもらった。けっこういい線をいってると思っていたからだ。

 わたしが上京した1970年からしばらく、美代子おばさんは川崎に住んでいた。最寄駅は、東急東横線の元住吉である。駒場キャンパスから近いので、そのころの週末は、美代子おばさんのところで、夕飯をごちそうになっていた。
 保之助おじさんは、自動車部品メーカーを経営していた。中小企業ではあったが、すでに台湾に自社工場を持っていた。名前は忘れてしまったが、前職は中堅の電機メーカー(明電舎)だったと記憶している。
 寺尾の伯父は、独立してスピードメーターを作っていた。一時期はたいそうに羽振りがよかったので、伯母も随分と贅沢をさせてもらっていた。ところが、1985年から始まる円高不況には勝てず、最終的には会社を精算することになった。元住吉の自宅も、債務の返済に充てるために売却された。
 伯母が逝く一年前に、寺尾のおじは癌でなくなっている。伯母は実にかいがいしく、最後まで保之助おじさんを看病していた。伯父が羽振りがよかったときより、すべてを失ってしまったあとでのほうが、美代子おばさんは幸せそうに見えた。
 事業に失敗して住む家までをなくした伯母が、それでもうれしそうに伯父を看病している姿をみて不思議な気がした。人間の本当の幸せの在り方が、当時のわたしにはわかっていなかったのである。
 生きていることの最高の喜びは、金銭でも名誉でも地位でもない。最愛の人と一緒にいられることである。いまになってみれば、そのときの伯母の気持ちがよく理解できる。伯母は、最後は最高に幸せな思いでこの世を去ったのだと。

 伯母も伯父も、戦後の一時期、結核を患っていた。療養所(サナトリウム)でふたりは知り合った。ところが、伯母の家では、そのころは伯父の顔を見かけたことがあまりなかった。台湾出張ということになってはいたが、多感な二十歳の若者は、伯父の背後に女性の影を感じてしまったものだ。
 美代子おばさんは、三味線のお師匠さんをしていた。かなりのお金を芸事につぎ込んでいて、たいそう立派な名取の表札を掲げていた。数十人のお弟子さんが家に出入りしていて、いつも和室で三味線のお稽古をしていた(らしい)。
 とて、ちん、とん、しゃん。この音色を、わたしは伯母の家でついぞ聞くことがなかった。お稽古が終わった夕方にしか、わたしが伯母の家を訪ねることがなかったからであろう。お弟子さんの女性がよく居残っていて、一緒に3~4人で食事をすることがあった。
 美代子おばさんは、いつも和服だった。呉服屋の長男坊だったわたしは、元住吉の家にいると不思議な安堵感を覚えた。和の世界でくつろげるのは、生家が呉服店を営んでいたせいだろう。わたしの両親も、ふだんから着物で生活をしていた。

 それから10年がすぎて、二棹の三味線と、収納用の桐箱を残して美代子おばさんは逝った。
 二本ある棹のうち1本は今、妻の知人のところに出張している。借りている方も、三味線のお師匠さんらしい。伯母の三味線は高価で立派なものらしいことを、女房から伝え聞いている。いまになって思えば、百万円以上はする高価な楽器は、伯父の不如意がそうさせたものだろうと想像ができる。
 それでも、長らく桐の箱で眠っていた三味線が、誰かの役に立っていることを伯母は喜んでくれているだろう。一昨年のことである。伯母の遺品にとっては、20年目の現役復帰だった。いつか、そのお師匠さんが発表会を開催することがあれば、一度、あの三味線の音色を確認してみたいものだ。
 もうひとつの棹は、わが家の一階の和室で桐の箱に納まったまま、静かに眠っている。永眠するか競売にかけられるかの事態は免れたいと思っている。わたしが、お三味線の真似事を始めるときのために保存してあるのだ。

 数年以内に、わたしたちは、千葉から東京の下町に移住するつもりでいる。神楽坂あたりもよいが、市ヶ谷・飯田橋の地区は知り合いが多すぎる。妻の実家がある葛飾の柴又から浅草にかけて、あるいは、むかしの街並みが残っている根津や下谷なども住みたい場所の第一候補だ。しばしば飲みすぎて沈没を繰り返している門前仲町あたりも、移住先としては悪くはない。
 いずれにしても、東京の新しい名所になったスカイツリーが見える場所である。新築でも改築でもよい。移住する先の家は、しかし、絶対に和風の造りである。土地の購入からはじめられるのであれば、福島の奥会津あたりから古民家を移築するのもよい。理想と妄想は、さらにつづく。
 下町に移ったら、元呉服屋の若旦那らしく、ふだんから着物で過ごすことにしよう。最終目標は、三味線にチャレンジすることだろう。そのときに、桐の箱に眠っている二棹目が蘇ることになる。その日が来るのは、3年後だろうか、5年後になるのだろうか。

 そろそろ、車を暖めて、横浜に出かける準備をすることにしよう。今日は風が強そうだ。
 桜が満開になる前の強風は、それでも幸運だ。数日の命が、二日三日先延ばしになるからだ。散りはじめになると、強風にあおられる桜が心配になって、気持ちがおろおろする。
 美代子おばさんが亡くなった翌年、桜のころに豊顕寺のご住職にご挨拶に伺った。新しくなったお墓と無事に終わった葬儀のお礼をかねてのことだった。
 その日は、雨上がりで境内の桜が満開だった。風は穏やかだったが、満開の桜はすでに散り始めていた。石畳の上は、桜の花のじゅうたんに変わっていた。お堂でお線香をいただき、手桶に水を汲んで、用意していただいた卒塔婆を抱いて、寺尾家の墓に向かった。
 子供がいなかった二人の墓は、山門を左に曲がった丘の中腹にある。寺尾の墓は、皆よりもすこしだけ早く無縁仏になるのだろう。そう思ったとき、一陣の風が吹いて、桜吹雪が舞いはじめた。わたしは、美代子おばのことを思い、涙が溢れそうになった。合掌。