TBSテレビ「荻上チキ・セッション22」の吉原担当ディレクターは、市川在住の人だった。子供のころから、サイゼリヤの生ハムや瓢(ひさご)の餃子で育ったらしい。院生のころから10年近く、わたしも鬼高に住んでいた。で、意気投合。番組終了後、赤坂近辺で深夜まで飲んでしまった。
途中から、長谷川プロデューサーもふたりの酒盛りに参戦。うつ病の話で、大いに盛り上がった。それはそうだろう。だって、ラジオ局に長くいれば、夜のしごとで日光が浴びれない。うつうつになるに決まっている。
ただし、鬱病話で特別に興奮してしまったのは、小川先生だけだったかもしれないが(苦笑)。
わたしは秋田県能代市の出身である。お勉強ができる北国の少年にありがちなことで、若いころは性格が暗かった。弘前生まれの太宰治の系列である。ちなみに、わたしは、戦前の外交官(弘前市出身)、サンフランシスコ総領事だった珍田捨巳の末裔(ひ孫)である。
話が脇道にそれてしまった。で、いまの楽天的な性格は、東京の40年間で醸成された後天的な性質なのだ。その理由を二人に説明した。とても簡単で、とくに冬場、東京に来てから屋外で浴びる日射量が増えたからだ。それだけのことなのだった。
秋田県は、いまはどうか分からないが、当時は「日本一自殺率が高い県」だった。たぶんいまでも、その傾向は変わらないだろう。日照時間が40年間で劇的に増えたとは思えないから。実際に、いろいろな事情はあったのだろうが、わたしの同級生でひとり、親戚関係でふたりが若いころに自殺している。
それは、まあ不幸な話だからいいとして、以下は、二人に話したエピソードの要約である。もっと尾ひれをつけて、たくさん話したのだろうが、もう酔っぱらっていたから、何をどう話したか、細かいところはあまり覚えていない。
18歳の時、大学受験のために東京に出てきた。1970年2月の第一週から第二週にかけてだった。最初に受験したのが、慶応大学経済学部で、二次試験は三田校舎だった。
一時限目(英語の試験)が終わって、こもった部屋の空気が息苦しく感じられた。換気しようとして、3階の部屋の窓を開けた。そこには、なんと!雲一つない青空が広がっていた。この空をみて心が決まった。秋田には一生帰らないぞ。
秋田の冬は、雪が降って寒いだけではない。12月末~3月初めまでは、天から空が落ちてきて、空天井が低い曇天が続く。北海道などとはちがって、雪はしめっぽい。洗濯物もなかなか乾かない。部屋干しするといやな匂いが残る。
寒い日などは、部屋干ししたパンツや靴下が、せんべいのようにバキバキに凍りついてしまう。洗濯物を、パリンと半分に手折ることができるくらいだ。
そうなのだ。三田校舎の窓から、突き抜けるような輝かしい青い空を見てしまったことで、自分を納得させた。
「よし、太陽の光を浴びて、この暗い性格を根本から変えよう。一生涯、秋田には帰郷せず。東京で暮らそう」。
29歳の時に米国留学のチャンスを得た。留学先は、迷わず米国の西海岸にした。花のサンフランシスコ(カリフォルニア大学バークレイ校)だった。東海岸(ボストンやシカゴ)だと、またぞろ秋田の気候に逆戻りになるからだった。前向きな性格は、このときに決定的になった。
カリフォルニアと東京の明るい太陽が、わたしの性格を明るく変えたのだった。
さて、回り道はこれくらいにして、本日の本題に戻る(わー、このブログ、長くなりそう)。
吉原ディレクターと、深夜の赤坂で、35年前のサイゼリヤ一号店の話に及んだ。本八幡の店(一号店)は、いまでもサイゼの博物館のようになっていて、二階はそのままに残されているようだ(吉原さん情報)。「ならば、昔の店をそのままで、期間限定でいいから復元してほしい!!!」。ふたりの意見は一致した。
いまのサイゼリヤのプロシュート(生ハム)の味が、そんなにまずいわけではない。が、当時のようなふっくら感のある「生ハム」ではなくなっている。
そうなのだ。生まれてはじめて食べた生ハムは、サイゼリヤのものだった。この世にこんなうまい生肉のポークがあるとは、まったくもって信じられなかった。友人たちが鬼高(下総中山駅、千葉県市川市)のマンションに遊びに来ると、本八幡の店に連れていった。ごちそうは、サイゼリアのピザと生マムとワインだった。
当時のプロシュートは、もっと「生っぽ」かった。本物感があった。はじめての白ワイン経験も、サイゼリヤだった。いまでも、同じブランドがサイゼのメニューには残っている。「キャンティ」というブランドだ。ワインボトルの形状は、いまのような寸胴ではなく、ちょっとなまめかしい形だったことを覚えている。
若かったからだろう。まったくもっての妄想だが、外形はイタリア女性の下半身を彷彿とさせた。下半分が大きく膨れた丸型のボトルだった。ぶつかっても、簡単に割れないようという配慮からだったのだろう。
ワインのボトルには、クッションとして、”わら”のようなものが巻いてあった。デザイン的にも、あのときの形が優れていると、いまでも信じ込んでいる。
ふたりの会話は止まらなくなった。昔懐かしい「サイゼリヤ一号店」の話や、市川駅前にあった中華料理の店「瓢(ひさご)」で、ジャンボ餃子を注文した話など。今では、市川駅前の区画整理でこの店は閉店して、瓢の餃子は、いまとなっては市川大野の支店でしか買えないのだ。
わたしは、「内陸」の西白井(北総開発鉄道線)に移住してからでも、ジャンボ餃子がときどき食べたくなった。市川駅に寄り道をして買って帰るのだが、帰りの総武線や武蔵野線の車内で、車両全体にジャンボ餃子の強烈なにんにくの匂いが漂ってしまう。かなり強烈な臭気で、これが恐縮なのだ。
吉原ディレクターも、いまは市川大野(武蔵野線)に住んでいるらしい。わたしと同じく「恥ずかしい電車経験」をしたらしい。えらく車内で往生したことを、ふたりで笑いあった。でも、ジャンボ餃子がまた食べたくなった。
かみさんに言わせると、「市川大野に店が移ってから、瓢の餃子、ちょっと形が小さくなったと思わない?」。そんなことはどうでもいい。
さて、その吉原さんと意見が一致したのが、サイゼリヤの「期間限定一号店」の臨時開業である。正垣会長にお願いして、是非実現してみたい。勝手な懇願なのだが、当時の生ハムとワインを再現していただきたいのです。