大学生のころから40年間、文京区の湯島、西片、千葉県の市川、白井に移住しても、なぜか思い出したように通っていたのが、本郷のおでんやさん「呑喜」(のんき)。しばらくご無沙汰していたが、今朝、かみさんから「いつもカウンターに立っている、あのおばさんが出てますよ!」と写真を見せられた。
丸い寸胴鍋に、いつものおでんが浮かんでいる。なつかしい!あのずぶずぶの銅鍋は、見かけ以上に、本当は底が浅いのだ。それを知ったのは、ごく最近のことだった。
名物おでんやの呑喜は、わたしたちが学生のころは、東大経済学部(通称、赤門)の前に店を構えていた。いまは、40年前に改装した店に移転して、東大農学部のバス停前に店がある。昔の店のほうが、格子造りで趣があったのだが、鉛筆ビルの一階では致し方がない。
刷り込みの効果だろう。12月の初旬になって木枯らしが吹き始め、銀杏の葉が散り始めるころになると、この店の存在を思い出す。「おばさん、まだ生きてるかな?」「ちくわぶの作り方の講釈を、また聞きたいな」。
かみさんは、東大の学園祭を思い出すらしく、12月になると決まったように、夫婦でこの会話をして笑う。呑喜の「ちくわぶ」は、素材(すり身)が高級で他店とはちがっている。カウンターの席に座ると毎回、おばさんからこの話を聞かされる。材料が、サメではなくて、タイらしいのだ。真偽のほどは不明だ。
おばさんは、いつも赤い服を着ていて、やや派手めの化粧をしている。おでん屋の女将には、あまりありそうにないハイカラないでたちだった。その写真が載っているのは、フリーペーパーの『メトロミニッツ』(2014年12月20日発行)。2015年1月号(通巻146号)。特集が「心と体を温める。上質な時間、東京モダンおでんキュイジーヌ」だった。
フリーペーパーのページをめくると、な、なんと、その17ページ目に、【煮込みおでん代表】として、本郷「呑喜」が登場している。対抗馬は、【つゆだくおでん代表】の日本橋「一平」だ。こちらをわたしは知らなかった。1929年創業の老舗らしい。
ちょっとばかり驚いたのは、フレンチ(料理)からヒントを得て、おでんを「煮込み料理」に変えたのが、呑喜の初代店主だったことだ。その万増太郎さんは、明治のころに、老舗フランス料理店、上野精養軒で料理人をしていたとある。
いまもカウンターでホステス役をしているおばさん(22ページ)と、初代の万増太郎さんとは血がつながっているのだろうか?旦那さんとおぼしき、白い割烹着のおじさんは、頭の毛を失っているようだ。妄想はさらにすすむ。
おでんは、明治のころは、屋台で売られていたものらしい。初代の呑喜も、きっと屋台を引いて、不忍池あたりで営業をしていたのだろう。記事のびっくりがさらに続く。
串田楽をひたひたのだし汁に漬けて、フレンチ風の煮込み料理にアレンジしたのが、初代の発明らしいのだが、さらに驚くべきことは、わたしの大好物「袋」も、どうやら呑喜の考案らしいのだ。取材記事によると、「明治20年に登場!」とある。ほんとかな?
言わずと知れたことだが、袋は、油揚げにすき焼きの具をつめ込んだおでんネタだ。もともとは、銀杏(きんなん)を油揚げにいれていたらしい。なんとなくだが、初代の万増太郎さんが、赤門前に落ちていた銀杏を拾ってきて、油揚げに詰めたのがはじまりではないかと想像してしまう。
現在の袋にも、基本的に、銀杏が一個だけ詰まっている。袋の中の銀杏は、たしかに微妙なアクセントだ。そのルーツは、東大赤門前にさかのぼることになるのだ。
それにしても、おばさんが元気なうちに、袋とちくわぶを食べに行かねば。