「大丈夫だろうか?」と心配になるのは、大学のほうなのです。横綱・日馬富士関の法大大学院入学の件

 本日から、山梨で学部ゼミの春合宿(~3月23日)になる。テキストは、桜井多恵子(2014)『重点販売』実務教育出版。店づくりの実務書である(*ブログは週明けまでお休みします)。さて、誤解を招くといけないので、昨日のブログを補足しておきたい。日馬富士関の大学院入学についてである。



 そもそも、現役の横綱が大学院で勉強などできるものなのだろうか?という心配である。学部の授業ではない。大学院である。しかも、失礼ながら、モンゴルからの留学生で、現役のお相撲さんである。それが、未知の分野である経済学(経済政策)を学ぶのである。
 入学を許可するのはよいのだが、教育ができる体制になっているかどうかである。わたし自身は、その隣りの経営大学院で、20年間、社会人の大学院生を教えてきた。教え子たちの中には、フリーアナウンサーの八塩圭子(当時は、テレ東のアナウンサー)、日テレのディレクターの岩崎達也氏(現在、共立女子大、法政大学講師)、元女性誌の編集長(現、A女子大教授)などがいる。
 それにしても、彼らは現役のままで修士論文を書くことに挑戦した。だから、血のにじむような苦しい思いをしている。そして、ようやく卒業していったのである。そこから推測するに、稽古や巡業、その他もろもろの相撲協会のPR活動などで、現役の横綱は超多忙である。現役の日馬富士関が勉強する時間など工面できるものなのだろうか?

 百歩譲って、その時間を確保できたとしても、卒業するに足る教育サービスを提供する体制が、わが大学の側にあるのだろうか?それが心配なのだ。
 このところ、大学院教育に問題がありそうなことが、メディアに露出しはじめている。大学院担当の教員が、院生の実験や調査研究をきちんと指導できているのだろうか。部下の論文を読んでいるのだろうか。先行研究の実験結果やロジックをチェックできているのだろうか。
 とくに私立大学では、注意していないと、院生を粗製濫造することになりかねない。生徒数と教員数がアンバランスである。教育予算が十分に確保されていない。院生を教育指導する教師の質と数がどちらも足りていないのが実情である。

 そもそも論になってしまうが、大学院の研究教育を「(生徒から徴収する)授業料」だけで埋め合わせることなどできるわけがない。大学院教育は、国や社会にとっては投資の側面が大きい。大学院の社会的な役割は、将来のために必要な科学的な知識とそれを支えるための人材を育てることにある。
 文化教育・科学政策的に考えると、恩恵に浴する個人ではなくて、企業や社会がコストを負担すべきである。それなくしては、教育システムそのものが成り立たないのである。
 解決方法は、わりに単純である。大学や研究機関への寄付や基金の創設に対して、国が税制的に優遇することである。欧米の大学のように、卒業生や企業が大学院(教育)に対して資金的に貢献することである。
 50年前には、左翼的思想の立場から、「産と学が癒着すると、社会が企業寄りになってしまう。大学での研究の自由が保障されない」と警鐘を鳴らした一群の研究者たちがいた。いまは、そのような悠長なことを言っている場合ではない。研究を支えるための資金と人材が確保できていないのである。だから、研究教育の質が保障されないのである。大学間の国際競争に勝てなくなっているのである。

 このブログのはじまりは、日馬富士の大学院入学の話がきっかけだった。実は、この話はもっと背景が複雑で深刻である。良心的に対応しようとすると、社会人教員ための施設も教員も事務組織も十分ではないからである。
 未来の教育に投資しようとする意志を、日本の社会がもたなければならない。そのことを真剣に考えないと、このままでは大学院の教育がとめどもなく劣化していく。学部とはちがって、大学院生は大量生産はできない。教育には時間と労力がいる。その自覚がなくして、安易な受け入れだけをやっていると、長期的には禍根を残すことになるのである。
 大学院生をきちんと指導できていない大学院が、いまや粗製乱造されようとしている。院生の質もそれを指導する教員の質も、止めどもなく低下している可能性があるのだ。現状では、そのことに歯止めをかけるシステムが十全に機能していない。ことは根が深く深刻である。一つの大学院(研究機関)の研究指導システムが抱えている問題をはるかに超えているのである。