岡藤くん(伊藤忠商事社長)の弁明: 「社長の給料なんぼや」と聞かれたのはわしの方だよ

 日本経済新聞の「交遊抄」(1月9日)に、友人の岡藤正弘くん(伊藤忠社長)が登場していた。語り手は、エース社長の森下宏明氏である。岡藤くんは東大経済学部の同級生で、同じゼミで学んだ仲間である(学生時代のことについては、過去のブログ(2013年2月14日)を参照のこと)。



 昨夜は、たまたまゼミの同期5人(梅沢ゼミ二期生)と六本木の日本料理屋で飲んでいた。そもそも梅沢ゼミの学生は、経済学部内では、”エリート集団”には属してはなかった。どちらかといえば個性的な学生が集まっていて、勉強よりは実践タイプが多かった。これについては後ほど、岡藤君の学生時代のエピソードを紹介する。
 昨夜の夕方18時に六本木に集まった5人のうち、3人は商社マンである。官僚や銀行(政府系と都銀)や人気企業(当時は、鉄や繊維、エネルギーなどの素材産業が上位)に就職した学生が多かった中で、梅ゼミの学生の半分くらいは商社に就職した。三井、住友、三菱、伊藤忠、丸紅、日商岩井など、ほぼ全商社に就職している。
 どこかしら標準的な東大生からは逸脱した就職傾向だった。そして、とにかく威勢のいい子がたくさんいた。わたしを除く昨夜の4人は、そうした学生達だった。数人だけは”まともな”学生もいたが、彼らはその後、絵にかいたようなふつうのサラリーマンの道を歩んでいるように見える。

 さて、昨日の宴席では、当然のことながら、日経の記事が話題になった。「社長の年収なんぼや」がコラムのタイトルでだったからだ。実は、わたしも10年ほど前に「交遊抄」のコーナーに登場したことがある。わたしが話し手で、友人としてはユニクロの柳井さん(当時は、社長の座を空け渡して会長職にいた)を指名させていただいた。2004年に、法政大学大学院で客員教授をお願いしていたからであった。
 夕刊の「交遊抄」のコラムは、新聞記者が聞き書きをして文章を作る。だから、メディアが好きそうな「その人物(社長)のイメージ」にあうように記事が書かれる。岡藤君の場合は、関西人で自由闊達、商売上手という世間の見方がある。ユルブリンナー並みの風貌で(すまん!髪の毛が消えてしまった時期をわたしは知らない)、社長に就任したばかりの友人に対して、「給料なんぼに上がったんや」と言いそうな感じはたしかにある。
 だから、エースの森下社長が「社長に就任したとき、岡藤さんから給料なんぼや?と聞かれた」と書いたら、「岡藤ならそう言いそうだよな」と皆が納得しそうである。しかし、岡藤くんの名誉のために、友人として彼の立場を代弁しておく。事実は逆であった。岡藤くんが伊藤忠商事の社長に就任したとき、「社長の給料なんぼや?」とたずねたのは、森川さんのほうだった。
 「先生、本当のことを社員と世間に知らせてくれ!」が岡藤くんの嘆願ともつかない弁明である(岡藤君は、わたしのことを”先生”と呼ぶ)。岡藤君が森下さんに言われたとしても、その逆が真実だとしても、岡藤君も絶対になんらかの切り返しはしているだろう。森下社長の話が100%ウソとも思えない。結局は、岡藤くんを擁護していない(笑)。

 ところで、昨夜は、学生時代(40年前)のことが話題になった。同じゼミで皆が二年間過ごしたのだが、お互いが何を考えて何をしていたのかは意外と知らないものだ。わたしとM(不動産会社勤務)くん以外の商社3人組は、しばしばゴルフをしているらしく、家族ぐるみでの付き合いがあるらしい。それでも、互いに学生時代のことはよく知らなかった。
 その中でも、初めて知る学生時代の岡藤君の生活ぶりにはびっくりすることが多かった。プライバシーに関わることは避けるとして(おもしろい話がてんこ盛りなのだが、残念)、学生時代の彼は、「金に困ったことがなかった」というではないか。父親を亡くして、母親とふたり。大阪から上京していたので、岡藤君は仕送りなしで自活していた。
 わたしなどは、奨学金をふたつ(日本育英会と伊勢丹奨学金)もらったうえに、秋田の実家から仕送りをしてもらっていた。それでもいつもピーピーしていたのに、岡藤君は悠々自適の生活だったという。彼は育英会の奨学金をもらって、そのうえ「学費免除生」だった。
 さらには、寮費がタダ同然の駒場寮に入っていたから、出ていく金はほとんどなかったはずである。駒場寮の定食も、70~80円だった(わたしもよく食べに行った)。それにしても、”裕福だった”のには理由があるはずだった。

 聞いてみると、岡藤君らしい話だった。当時、彼は御茶の水女子大の女の子と付き合っていて、女子寮(大山寮)に頻繁に出入りしたらしい。コンビニがない時代である。スーパーや酒屋さんなどは夜中になる閉まってしまう。ジュースとかを飲みたいと思っても、大山寮に寄宿している彼女たちは買い物に行く場所がない。
 そのことに気が付いた岡藤君は、日本コカコーラと直接交渉して、ベンディングマシーン(自販機)を大山寮に設定してもらった。自販機の代理店契約の主体は自分だから、仲介料(マージン)が、”ちゃりんちゃりん”と彼の懐に落ちてくる。酔った勢いだからどこまで本当かはわからないが、「それだけで月額15万円の収入があった」(岡藤くん)。
 海外ブランドのインポートビジネスで成功した岡藤君だが、若いころから商才はあったのだ。その片鱗を昨夜は聞かせてもらった。事業で成功する人間は、若いころからちがっている。大学とか関係はなさそうだ。そのひとの行動や考え方は、生まれっ育ちとか、学生時代に経験してことのほうが影響が大きそうだ。

 そういえば、同じく、経済学部の同期生だった「東進ハイスクール創業者」の永瀬兄弟(社長・副社長)は、学生時代から本郷でBMWを乗り回していた。弟の昭典くんからは、「小川君、ぼくはまともに就職など考えたことなかったよ」とずいぶんしてから聞いたことを覚えている。同窓会か何かの席だった。
 別々に学習塾を経営していた永瀬兄弟だが、ふたりとも当時すでに年収が1千万円は超えていたはずである。江副さんのリクルートも学生起業家だったが、永瀬兄弟の東進ハイスクールも、いまでいう「ベンチャー」のハシリであった。傍から見ていて、永瀬兄弟の事業は本当は大変な時期が何度があった。それでも、いまは”林先生”を擁して順調に成長しているようだ。
 岡藤くんのほうは、伊藤忠商事という大企業のトップである。しかし、自分たちで事業を起こした永瀬兄弟とタイプは異なるが、岡藤君はどこか「ベンチャー起業家」の匂いがする。ふつうの商社のトップとは、近くで見ていても、昔の話を聞くにつけて、なんとなくスケールがちがうような気がする。もともと大経営者になる素質をもった人間だったのだ。

  <追記>
 このブログを書き終えた後で、たいへんなことに気が付いた。昨年2月14日に書いたブログ「岡藤正広君(伊藤忠商事社長、元クラスメイト)と38年ぶりで再会」から引用する。

 (前略)
 体育会系のゼミ構成員には、鹿児島ラサールの出身で、卒業後に商社経由で大手製パン会社の娘婿(社長)になったO君、アメリカンフットボールの部員で卒業後は商社マンになったM君、伊藤忠の対抗商社のMに行ったT君などがいた。このグループの構成員(多数派)は、あまりモテモテの集団ではなかった。(実際はそうではなかったかもしれないが、わたしはそう見ていた。)
 (後略)

 昨夜、六本木の料理屋に集まった3人の商社マンは、ここで名前を挙げているMくんとTくんと岡藤くんだったのだ。そして、話題の中心は、Oくんのその後のことだった。あまりモテモテではなかった「地方県立高校の出身者」から構成される、梅沢ゼミの第一グループが集まったのだった。もっとも、社会的には全員が成功している。
 幸いなことに、全員が結婚して、誰一人として「×」になっていなかった。同世代が集まると、ふつうは40%の確率で離婚・再婚組が混じる。このへんと病気の話が、われわれ世代の「飲みネタ」になる。そして、同時代の平均から見ると「子だくさん」だった(3人が3人のこどもに恵まれ、2人が子供が2人)。
 この夜のミニ同級会(宴会)は、岡藤君がT君とふたりで組織したのだが、小川が参加することで、Mくんにも声がかかったらしい。一年前のわたしのブログを、社内講演後に全社員に配布したらしい。岡藤君のしゃれっ気がそうさせたのだろう。