長女が京都のホテルで働いている。京都女子大学時代から、アルバイトで比叡山や京都市内のホテルで”お運びさん”をしていた。一年間の生命保険会社勤務の後、ふたたび好きなサービス業に舞い戻った。幼稚園の先生になりかけていた娘には、向いた仕事である。
いまはホテルのクロークで働きながら、切り絵作家を目指している。趣味ではじめた切り絵作りだったが、交通事故を経験したあとは、微妙に作風が変わってきている。一昨年あたりからは、小さな個展を開くことができるようになった。
父親のわたしは、白状すると、いつか京都で暮らしたいと思ってきた。18歳で大学を受験をするときに、京都大学も選択肢の一つに入れていた。若者にとって京都はあこがれの町である。高校生のわたしも、京都を選んだ娘と同じ心境だったのだろう。
ところが、高等学校の修学旅行で簡単に翻意してしまう。修学旅行は、定番の京都・奈良巡回コース。初日は秋田出発で京都まで夜行列車の旅。とろとろ京都駅まで、日本海の漆黒の海岸を右手に見ながら列車に揺られた。晩秋の京都駅頭は冷え冷えとしていた。えらく遠いなあ。そう感じた途端に、京都大学で学ぶ夢はついえてしまった。
30年後に、娘が大学進学で京都女子大を選んだ。そして、弟子の林広茂さんが、同志社大学のビジネススクールで教えるようになった。前後して、法政大学大学院でわたしの研究室にいた坂本和子さんが、京都工芸繊維大学の助教授に採用された。しばしば京都の街を、仕事に遊びをかねて歩き回るようになった。
ライトアップの清水寺に夜の祇園。ときどき、お忍びのワインバーの楽しみ。そんな縁もあってか、京都に残っている娘や神戸からやってくる息子との再会、京都在住の弟子たちとの京都夜遊びを言い訳に、2000年からは京都マラソン(ハーフ)を3回ほど走った。フラットなコースなので、京都ハーフはいつも好記録が出せた。1時間42~45分のタイムで走れたのは、鴨川べりのコースが平坦だったからである。
初参加のころからとても気に入っていたのだが、4年前から京都ハーフはフルマラソンに変わった。他の都市マラソンのように「超」がつく人気が出て、とうとう抽選になってしまった。今年のレースでようやく抽選に当たった。3月10日、東京マラソンの二週間後に京都マラソンをどうにか完走できた。
もともと京都が好きだった。いつかこの町に住みたいとも思っていた。不思議なことに、最近になって降ってわいたように、京都の大学で教える可能性が出てきた。娘のために探してあげたマンションの一室は、今年になって最初の更新を終えているが、切り絵作家を目指す娘には作品づくりのために工房が必要である。
そうか。ならば、京都で町屋を買うことにしよう。突然、京都で暮らすことを思い立った。わたしが京都に滞在している間に、古い町屋を改築して住んでみるのも悪くはない。この先の1年をかけて、京都で暮らす準備をすることに決めた。
高校生のときの夢が実現するかもしれない。やはり長距離ランナーで、ノーベル賞を受賞した山中教授のように、わたしは京都大学には入学しなかった。しかし、週末に大学で教えて、土曜の夜からは京都の街で遊ぶ。老後の理想的なライフスタイルではないか。
ウイークデーは東京で仕事をして過ごす。週末に、次男の新幹線で京都に移動。
京都の街中は、もちろん着物を着て歩くことにする。「京都の町屋住まい」と「神楽坂移住計画」のちがいは?と聞かれたら。京の町を歩くとき、わたしの左手に、お三味線の棹を抱えていないこと。