「衰退する商店街」についての感想文(3つの優秀作品)

 先月の読書感想文で、3人が優秀なレポートを提出してくれた。それぞれが異なる論点から「商店街」について論じている。わたしが驚いたことは、われわれの年代(昭和20~30年生まれ)にとっての常識的が、彼ら(平成生まれ)にとっては「新しい」歴史的事実だったということである。

 
 先月の優秀作品は、小野寺、最上、下地の3人。全員が男子学生である。めずらしいことである。24人の学生のうち、女子12人、男子12人である。
 優秀作品は、通常は女性学生の比率が高くなるのだが、今回(8月)は、男子優位である。例外月だった。これにも驚いている。

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 「自分の体験と照らし合わせた「商店街」」 ID:3502
 経営学部経営学科 小野塚 拓也(09F0141)

この本を読み進める前に、自分にとって商店街とはどんな存在だろうか、と考えてみた。
僕が生まれ育った地元には、いわゆる商店街と呼ばれるものは存在しなかった。自営業の専門店は何軒か存在していたが、商店街というものには馴染みが無かった。物ごころついた時には、近所にはすでに大きなジャスコが存在していたし、そのジャスコがあった土地も、もともとは周辺は工場や倉庫ばかりであった。小学校の近くにはライフがあった。しばらく経つと大きなイトーヨーカドーもできた。中学時代には、そのジャスコがさらに大きく拡張し、イオンモールになった。工場や倉庫に混ざって、コンビニも点々としていた。近所にあった自営業の店と言えば、公園の脇にあった精肉店くらいである。その店も数年で閉じてしまった。幼いころから買い物と言えばイオンかヨーカドーかライフ。それが普通だと思っていた。だから、「大きなショッピングセンターやコンビニが商店街を壊す」といった感覚に親近感を抱かなかった。
一方、千葉に住んでいる友人は、生まれた時からすでに地元の商店街が閑散としていたようで、「シャッターが閉まっていて、人もまばらなのが当たり前。そういうものが“商店街”というものだと思っていた。」らしい。
第2章「商店街の胎動期」で奥井復太郎が商店街を繁華街のものと地元のものとで区別する、という話がある。僕は幼いころから、近所には先述した大きなショッピングセンターがあり、東京都心には大きなデパート、という印象が強かったため「商店街=地方、田舎」・「商店街=不潔、古い。ショッピングセンター=キレイ、ブランド」というイメージを勝手ながらもっていた。中学生のころに、東京都北区の「十条銀座」に出会うまでは、本当にそんなイメージしか持っていなかった。十条銀座に出会ったときは衝撃的だった。今でも活気のある商店街だが、これが商店街というものなんだと感動したのを覚えている。初めて「商店街って良いな」と思えた瞬間だった。それ以来、十条銀座のような商店街がある街に憧れるようになった。
僕らの世代は、この本でいう「商店街の安定期」(1946~1973年)を身をもって経験していないため、若干感覚の差があるのかもしれない。

本の中では、両翼の安定、商店街の胎動期~崩壊期にかけて、自営業がどのように経営し、どのように自らが商店街を破壊していくのかのプロセスが描かれていた。
家族経営で維持されていた商店街の自営店の数々が、跡継ぎ問題に行き詰り、コンビニ経営に手を出し、そのコンビニの存在そのものが自分の所属する商店街を内部から破壊していく……という話である。僕はこのプロセスを読んでいって、まるで自分の祖父母の家のことを言われているようでびっくりしたような感動したような、そんな気持ちになった。
僕の父方の祖父母はさいたま市浦和区で「太田屋食品」という店を営んでいた。こんにゃくやところてん、くずもち、ちくわぶ等を売っていて、商店街に属していたわけではないものの、地元密着の融通が効くお店であった。祖父母の家庭は、父を入れて4人の姉妹兄弟がいたが、誰も継ごうとは思わなかったのか、跡継ぎ問題に直面してしまった。その後、祖父が体調を崩し、2001年には店舗を建物ごと壊して、長男がセブンイレブンの経営に乗り出した。祖父母が亡き今は、太田屋食品のあった面影は何もなく、長男夫婦とたくさんのアルバイトによってセブンイレブンが経営されている。
日本でコンビニが急増した1970年代後半~1980年代前半とは時期が異なるが、自分で身近な事例があっただけに、この本に書かれた事実は強烈だった。

あとがきには町の薬屋さんに、深夜に急病の子供の為に氷枕を買いに来るという引用文があった。これを読んで以下のエピソードを思い出した。
僕が幼いころは母親がよく散髪をしてくれたのだが、失敗した際に、よく通っていた近所の理容店に営業時間外に散髪のし直しをお願いしたこともあった。高校生になってから、もうその理容店は利用していない。なんとなく申し訳なく、寂しい気分になった。

さて、冒頭では最近の学生は起業しようとする人が少ないと言われていたが、それはその通りだと思う。高度成長期は「雇用の安定」と「自営業の安定」という2つが成り立っていた、とあったが、自分自身が上記のような事例を見ていたこともあって、「自営業=安定」とはならなかった。
起業は究極の自営だと思っているので、不安定であり冒険であるというイメージしかない。大学生は卒業してどこかの企業に入るという道しかないと思っているので、安定した企業に入りたい若者が多く、起業する若者がいないという現状にも不安は覚えていなかった。キャリアデザイン学部1年生の後輩に、起業を志している者がいるので、その行く末にも注目したい。

全編を通して感じたことは、商店街の歴史が予想以上に政治と結びついていたことである。実体験した事例と照らし合わせられたのでアッという間に読むことができた。

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 「商店街はなぜ滅びたか」
  09f0723  下地 米八

私は今まで、商店街について考えたことが一度も無かったと思う。小さいころから接しとことが無かったからであろうか。ただ、全体的に廃れていて、お年寄りがとても多いというイメージは持っていた。
「商店街はなぜ滅びるのか」を読んで、商店街の歴史や作られていった理由、政治との関係や現状を知ることで、様々な角度から商店街について考えることができた。そこで、まず「地元沖縄の商店街」と、今現在住んでいる「阿佐ヶ谷の商店街」について考えてみた。

沖縄に「平和通り」という名の、かなりでかい商店街がある。有名な観光スポット「国際通り」に面接しており、観光客でにぎわっている。私の高校も近くにあったため、ほぼ毎日通っていた。規模がでかいため、「表」の国際通り近くと、「裏」の私の高校近くでは、にぎわい方がまったく違う。
「表」では、似たようなお土産屋さんがずらりと並んでおり、若い観光客がとても多く、すごく賑わっている。古いお店や、個人の零細小売のお店など無いように見える。友人や地元の人はここでは買い物はしない。私自身も利用したことは無い。
「裏」は逆の顔をしている。小さな個人店舗(婦人服や飯屋など)がぽつりぽつりとあり、シャッター商店街のようだ。ビリヤード場やゲームセンターもあり、夜は若者のたまり場となっている。客層はほとんど地元の人で、また、ただ単に通路として商店街を歩いている人が多いように思える。
では地元の人の交流がないか?というと、そうでもないように思える。商店街の「中央部」には、そのまま「公設市場」という名前で観光スポットにもなっている、市場がある。その日とれた色鮮やかな魚や野菜、お肉、沖縄名品が売っている。ここは沖縄のお年寄りが多く、また観光客も多く、大変賑わっている。友達がここでバイトをしていて、話を聞いたことがあるが、地元の人同士で物々交換が盛んに行われており、みんな家族の様だった。と言っていた。
沖縄の商店街は、形を全部変えるというより、観光客向けの新しい顔と、古く家族のような顔を上手く共存させることにより、生き残っているのだと感じた。私が一番に感じる問題点は、駐車場がないことである。沖縄には電車がない。若い地元のお客さんを取り込むためには、交通の便を改善しないといけないと思う。

一方、阿佐ヶ谷の商店街は、さすが東京!という感じで毎日人で溢れかえっている。祭りが開催されれば、歩けないほどだ。
客層は老若男女、道は狭く、とても歩きにくい。とても長く、2キロもあるように感じる。お店は、飲み屋や酒屋、八百屋など様々な零細小売もあれば、牛丼チェーン、ブックオフ、パチンコ屋、コンビニなど、様々なチェーン店がある。私はほとんどチェーン店しか利用したことが無い。
なにか違和感を感じたことがある。それは、今まで私が持っていた商店街のイメージとはまったく違って、チェーン店がかなり多いことである。沖縄のように地元の人が交流しているような、商店街ならではの温かい雰囲気は感じない。
しかし、商店街のこれからの形は、このように地元の交流の場として使用しないことが正解なのでは、と思った。チェーン店だらけで新しい店が多い商店街でなければ生き残りは難しいと思う。

そもそも、私は地方出身者であり、きっと昔のような零細小売だらけの商店街であれば、その商店街は使用しないと思う。今では、その町に住んでいる人は、たいてい昔からその土地にいる人ではないと思う。交通や流通の便も変わってきたし、商店街が昔のような形を取る意味自体がなくなっているように思えた。

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 「商店街はなぜ滅びるのか
  社会・政治・経済史から探る再生の道」
  学籍番号:09f1944
  ゼミID:3512  最上雄平

私も普段は商店街を利用せず、スーパーやコンビニ、ネットショッピングを利用する一人である。やはり、日常的には、商店街で買い物をするより、スーパーなどでワンストップショッピングをするほうが、便利である。

しかし、商店街には、デパートやコンビニにはないワクワク感などの独自の良さがあると思う。たまにしか利用しない私でも、無くすのは惜しいと感じる。だから、今回は、自分の知っている具体例から考え、シャッター街再生への活路を見出していきたい。

一つ目は、インターネットで見た記事の例である。
山口県宇部市にある斜陽な商店街が一区画を全て、お化け屋敷にして、観光地化し、商店街を活性化しているという内容である。詳細は、そのお化け屋敷は世界で最長になっており、ギネス記録に認定されていた。途中に難しいミッションがいくつか設置されているらしく、全てクリアした人には賞金1万円との事である。このような取り組みのおかげで、特に若者の商店街の利用者が増えているとの事であった。
この例は、商店街を部分的に観光地化することで、ターゲットを周辺地域に住む人だけでなく観光客も取り込み、成功している例だと思う。
しかし、一点だけ、この例に言及したい事がある。商店街を活性化させる目的であるならば、クリアした後の景品を賞金ではなく、その商店街で使用できる商品券にすれば良いと思う。そうすれば、お化け屋敷で楽しんだ後に商店街を利用する流れを創れ、さらに商店街が活性化するはずである。

二つ目は、私のアルバイト先の例である。
私のアルバイト先は居酒屋であるが、少し変わった業態である。2009年に外食アワードを受賞した浜倉好宣氏がプロデュースした「ネオ横丁」という業態の居酒屋である。
「ネオ横丁」とは、飲食をテーマに、シャッター街化した商店街や斜陽物件を、小規模店舗の集合体で1区画に複数店舗で分割入居する「横丁」として再生したものである。建物自体をあまり改修しないので、どこか懐かしいノスタルジックな雰囲気を各店が醸し出しており、あえて、時代の逆を行く事で奏功している。
さらに、立地場所により横丁のテーマが異なり、神田の場合は「肉」、私の勤めている有楽町の場合は、「産地直送」がテーマになっており、各店のメイン料理・食材が被らないようになっている。
また、ネオ横丁では、今の飲食店には珍しく、従業員は服装、髪型、女性の場合はネイルなども自由になっており、接客マニュアルも無い。すべて個人の裁量に任されており、そこから生まれてくる「人間臭さ」が強みになっている。だからこそ、訪れる客は、商店街を利用する際のワクワク感と似たものを感じることが出来るのではないかと、実際に、働いていて感じる。そのせいか、店内で流しているフォークソングに合わして合唱する団体客を良く目にしている。

この例は、商店街として再生しているわけではなく、提供する「モノ」は変わっているが、商店街の利用者が抱く「ワクワク感」は変わらない点では、良い例だと思う。商店街で働く人々からすれば、好ましい例ではないが、地域活性化の面からすれば、このような商店街の再生方法もアリだと思う。

これら二つの例は、商店街として再生するべきなのか、商店街とは別の形で再生するのか、厳しい立場に追いやられている商店街が今後、歩むべき道を指し示していると私は思う。
しかし、容易には再生できないだろう。今回、課題図書を読んでいて、商店街で一度シャッター街になった通りは新たに商店街として再生することは、改めて、厳しいと感じた。
以前の活気にあふれていた状態とは、いかないまでも、新たな道を探り、独特のワクワク感を感じられる「空間」として、未来は明るくないが、今後も残り続けて欲しいと思う。