この数日、プロジェクトの指導教員を決めるために、院生たちと面談をしている。ひとりの持ち時間は30分~40分。学生たちはプレゼン資料を印刷して持参してくる。彼らから見れば、アイデアの営業活動である。わたしたち教員にしてみれば、この短い時間は、院生のアイデアを品定めする鑑定の機会である。
なんらかの意味で、わたしが「おもしろい」と判断したプロジェクトには、学生たちが意見を伺いに研究室にやってくる。これは、指導教授を決めるための交渉のプロセスである。ある種のお見合いである。
したがって、学生の熱意や事業の到達先を予見しながら、わたしは学生に質問を投げかけていく。また、自分自身の考えを学生に対して述べる。
個々人のプロジェクトの評価は脇に置いておくとする。一般論としていえば、IM研究科の創設から8年目にして、学生たちが提案してくるビジネスのスケールがずいぶん小さくなってしまった。単純に彼らが創案する事業の規模が小さいのである。正直にいえば、ちょっとがっかりなのだ。そう、この建物に、ちょっと危なっかしい「ほら吹き」がいなくなった。
事業アイデアは、そのひとの生きざまを反映する。物事を身の丈で考えてしまえば、提案してくるビジネス(プロジェクト)も、当然そうなるのだが、当座に実現できる程度の大きさにしかならない。
手持ちの「自己の資源」で、いまある自分の「アイデアの範囲」での発想になる。実現可能性を優先させれば、着想もそうなってしまう。根本的な理由は二つだとわたしは思う。未来の想定を大きく変えてシミュレーションしないからであり、自己完結的に物事を処理しようとするからである。
前者に対する処方箋は、誇大妄想だと思われるくらいに、未来の変数を変えててみることである。例えば、もしこの規制が撤廃されたならば、人々の行動や競争相手や関連市場は、どのように動くのだろか、などなど。
後者については、自分の周りにいる(場合によっては、潜在的な)協力者の力を借りることである。わたしがしばしば指摘する「他人のふんどし」を当てにして仕事を進めるように図ることである。そうでないと、スケールが大きな仕事はできない。たしかに、その分、実現する可能性は低くなるのだが、小さな仕事でできないようならば、大きなギャンブルにも勝てないだろう。大だろうが小だろうが、結論は同じことだ。
「自己成就予言」、もしくは「予言の自己成就」(じこじょうじゅ)という言葉がある。英語では、self-fulfiling prophecyというらしい。もともとは、「予言をした者もしくはそれを受け止めた者が、予言の後でそれに沿った行動を取る事により、的中するように導かれた予言の事である」(WIKI)。
ウイキペディアの説明は、もってまわった表現になっている。わたしがこの言葉を使う文脈は、実現したいことを周囲の人々にしばしば公言することで、目標達成のために自分を追い詰める場合である。
たとえば、マラソンで47都道府県を制覇するとか、身長の高さまで積み上げられるように本を書き続けるだとか。自分の行動を縛りながら(自縄自縛)、できるぎりぎりの程度に、具体的な目標を高めに設定する。
言いたいことは、院生たちのプロジェクトは、自己成就予言をしなくとも達成できる程度に目標が設定されているのではないかということである。もっとチャレンジ精神にあふれたプロジェクトに、ハードルを高めてほしいのである。モチベーションもアスピレーションレベルも低いように思える。
先週は、そんな気持ちで面接をしていた。
大学院生のみなさんへ。研究科長としてわたしが感じている、かなり残念な気持ちを推し量っていただきたい。大きなほら吹きよ、出でよ。諸君のこの先の健闘を祈りたい。