2週間ぶりに、病気療養中の娘と自宅で昼ごはんを食べている(昨日の記事)。交通事故でリハビリ中の娘がつくった噌仕立てのお鍋は、温かくておいしい。京都女子大に4年間、その後は、京都のホテルグランビアに就職したので、父娘が一緒に食事をする機会はあまりない。
仕事や学会で関西地方に出張するときは、京都駅のホテルグランヴィアに泊まる。しかし、娘は仕事で遅くなることが多い。宿泊客とサービス提供者はすれ違いなる。
それでも、10時ごろに仕事から上がってくる娘と、京都駅前の路地裏にある薄暗いバーに入ったり、祇園まで急きょタクシーを飛ばすことはある。おしゃれなワインバーやこじゃれた料亭で、ひやおろしなど、深夜に日本酒を飲むl機会はある。
ただし、ふたりとも翌日がある。そんなに長い時間を一緒にいることはない。50代後半の親父と30歳を少し過ぎた独身の娘とは、世間並み以上には良好な関係を保っていた。
2か月前、「京都救急医療センター」から留守電が入っていた。最初は、女房の携帯に連絡が来たのだが、あいにく親戚の告別式の最中だった。電話に出られない。
しかし、尋常な事態ではない。わたしが代わりに救急センターに電話を入れた。娘の知海が、交差点で乗用車と接触して、ICU(集中治療室)に運び込まれていた。乗用車を運転をしていた相手は、40過ぎの女性ドライバーらしかった。
事故は、午前9時半すぎに起こった。「お父様でいらっしゃいますか、京都救急センターのものです。命に別状はないですが、(娘さんは)顔面と腰を強打しています」。
さらに、左足を骨折をしていた。救急隊員(本当は、若い研修医だった!)の電話での簡単な報告から、それだけがわかった。
とりあえず午後からの仕事をすべてキャンセルして、京都行の新幹線に飛び乗った。
いつもは本を読むのだが、新幹線の中では、何も読む気持ちになれなかった。二日後に、次男の真継(まつぎ)が同じ列車(のぞみ号)で、初めてのソロ運転をすることになっている。
次男が乗る電車に、家族全員で一緒に乗り込む行事もキャンセルになるなのだろうな、と思った。京都駅で待っているはずの長女が、いまや大けがをしているのだから。
娘の安否を気遣いながら、知海が生まれたころのことを思い出していた。
知海は、3~5歳の時に、米国カリフォルニア州バークレイ市の大学付属幼稚園(ナーセリー)に就学していた。妻が何度も幼稚園に足を運んで、入学を懇願したことが実って、晴れて入学できたのだった。「アジア人がなぜ入学できないのか?」をひたすら主張したからだった。
人種的なハンディキャップは、米国の社会では、ときとして有利に働くケースを知ることになった。この幼稚園は、地元では有名な学校だった。子供が生まれた時から、ナーセリーに入学させるためにエントリーをするらしい。それでも、抽選になるくらいに倍率が高かった。日本でいえば、筑波大学の付属小学校に入学する感覚なのだろう。
日本とはちがって、米国の幼稚園での教育は自由だった。音楽も遊戯も、勉強もまったく縛らない。授業参観には何度か行ったが、実に好き勝手にやらせていた。あまりに自由闊達すぎため、船橋の幼稚園に転入学した娘は、帰国してからたいへんな目にあった。
日本流の集団行動についていけなかったのである。自主性を重んじる米国流とちがい、日本の幼稚園では、みなが同じ行動をすることを強制したがる。その考えになじめない娘は、ほどなく小学校に入ってからも陰湿ないじめにあった。それは、微妙に中学校まで続いていたような気がする。
小川家は、元々が自由な家風である。そこに、米国での幼稚園体験があったから、長女はとくにかわいそうな思いをしたのかもしれない。
ちなみに、長男(由)は、わたしたちが米国留学から帰ってきたときは、また3歳だった。米国での生活は覚えていない。外国人にアレルギーがない(息子の長所である)が、長女のように、精神的な怪我はほとんどしていなかった。
昼過ぎに、救急医療センターの病棟に到着した。娘は、すでにICU(集中治療室)から出されて、ICU内の隣りの病室に移されていた。とにかく、命に別状がないことと、後遺症が出る可能性は高くないことを知ってほっとした。
しかし、翌日になってから、顔面を2~3針縫うことになった。「多少の傷は残るかもしれませんよ」が主治医の報告だった。若い研修医さんで、はきはきとしない物の言い方である。娘の元気のなさにも不安を感じた。
精神的なショックは、並大抵のものではなかっただろう。休みの日に、返却日が過ぎていたDVDを、近くのツタヤに返しに、自転車をこいでいたときの事故だった。現場を見に行った長男の報告によると、狭い十字路で、前方不注意の乗用車と側面から衝突したとのこと。自分もいったん停止のルールを守らなかったらしい。
明らかに、相手はスピード違反である。現場検証によると、時速40キロは超えていたらしい。車の窓ガラスが割れるくらい強く顔面を打ち、娘の体はボンネットに乗せられたまま、道路を十数メートルほど運ばれた。そして、道路に落ちたときに左足を骨折した。
運良く、頭を打たなかったのは、背中にリュックサックを背負っていたからだった。後日、血痕が付着したリュクを見たが、これが娘の命を守ったのだと思った。リュックを背負っていなければ、たいへんなことになっていただろう。
大事故から、二か月ほどが経過している。娘の知海は、千葉のわが家で療養中である。ホテルグランヴィアは、来年の1月いっぱいまで休職することになっている。
通算では約4か月の休みになる。京都女子大を卒業してから、約10年間、休みなく働いて、ひとり暮らしをしてきた。よい休養といえば、そう言えなくもない。
当初は、職場への復帰を不安がっていた娘だが、リハビリを継続しているうちに、ゆっくりとだが歩けるようになってはいる。いまは、元気に毎日、テレビ鑑賞と二匹のフェレットの世話をして過ごしている。
昨日は、近くのショッピングモールまで、父親に買い物に連れて行ってもらった。ほとんど何も着替えを持たずに、京都から千葉に連れてきたので、冬物の洋服をまったく持っていなかった。
もちろん買い物代金は、父親の支払いである。こうして甘やかしてやるのも、あとひと月半ほど。職場に復帰すれば、また深夜まで忙しく働くことになる。
とりあえず、骨折のために階段が登れないので、いまのアパートは引き払うことになる。3階に住んでいるのだが、エレベーターがない。その移住先も、急いで探してやらねばならない。
長い間、娘たちをきびしく育ててきた。米国滞在以来、わたしは、子供たちに自立して生きるように言ってきた。18歳の時、秋田の実家を離れてからは、自分もきびしい生き方をしてきた。だから、とくに男の子ふたりには、学生生活が終わった時点で、「家から追い出した」。
しかし、今度のように、事故に遭遇した娘を見ていると、もうすこしくらしは甘やかしてやるべきだったのかもしれない、と反省をしている。もっとも、わたし自身が、仕事が手いっぱいで、この10年間、そんな余裕もなかった気がする。
娘の職場は、京都駅の中にある。今度のアパートは、駅から近いところがよいだろう。そのうちに、父親の京都事務所として、彼女が二匹のフェレットと一緒に住める快適なマンションか町家を手配することも考えてみようか。