文藝春秋(ユニクロ帝国の光と影)からの「ブログ記事削除要求」(4月30日付)

 ユニクロと文春との間で裁判沙汰に発展しそうだったので、この件に関しては黙していようと考えていた。しかし、ブログの読者には事実を伝えておこうと思う。4月29日のわたしの書評記事に対して、文藝春秋から削除クレームが来ていたからである。

 
 6月3日(読売では6月1日付けの記事)に、ユニクロが文春を名誉棄損で訴えることになった。なので、いまさら、わたしがこの事件に関して黙していることの意味はなくなってしまった。個人的には、柳井さんに、文春と係争事件を起こしてほしくはなかったのだが。
 柳井さんは、文春の仕打ちが、よほど腹に据えかねたのだろう。わたしも内容が内容だとは思う.
ご本人は、「ペンの暴力です」と、メールでは激怒されていたほどだ。

 そうは思うのだが、裁判沙汰は、結果として、文春を利するかもしれない。柳に風と、著者と文春は、無視しておけばよいものを。メディアとまともにやりあえば、精神的に消耗する。
 心配なのは、そうした消耗戦が、経営のかじ取りに微妙に影響を及ぼすことである。世間やメディアの評判など、経営者としては、大して気にすることはないのに。
 この件が話題になって、横田さんの本が売れる。次号の文藝春秋や週刊文春は、特集が組まれるかもしれない。世間の評判やメディアの思惑は、柳井さんの実績には無関係なはずである。大事なのは、会社の業績である。アジア市場での成長戦略とその実現である。
 わたしのアドバイスは結局、届くことがなかったのだなと、とても残念である。

 まあ、しかし、それほどの力は、いまや文藝春秋にはないのかもしれない。
 むかしは、飛行機の中で、日本のエリートたちは、「文藝春秋」を読んでいたものだ。わたしも、海外駐在の商社マンや現地駐在の経営者クラスに、「先生、こちらにいらっしゃるときには、成田(空港)で、文芸春秋を買っていただけませんか」とリクエストされたものだ。
 その文春が、新興企業のユニクロから訴えられている。そこまでになったのかと思うと、悲しい気持ちになる。朝日新聞の「アエラ」(放射能の表紙)も同じだ。日本の選良メディアは、いったいどうしてしまったのだろうか?

 注意深い読者は、4月29日のブログ(書評記事)の一部が削除され、一部の文章が入れ替わっていることに気付いたはずである。
 文春からわたしへの要求(以下に紹介する)は、ブログ記事内で、つぎの3か所について削除してほしいとのリクエストだった。
 ブログ掲載の翌日にメールをいただいた。著者の横田増生氏と担当編集者の下山進氏から、以下のような指摘があった。両者の署名入りだったので、文章の一部をそのままに引用することにする(4月30日の日付け)。

 
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 (前略) 丁寧なあいさつ文のあとで、、、、(中略)

 本書について「多くのエピソードが、根拠のあやしい事実に基づいて書かれている可能性がある」「客観的な事実=証拠を集める方法と、事実そのものの信憑性について検証が不十分」「事実があまりに違っている」などの記述は事実と異なり、著者および版元の名誉を著しく棄損していると考えます。本書の記述は、全て正当な多角的な取材の裏付けによって書かれたものです。

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 たしかに、わたし自身が、文春に問題点を具体的に問い合わせたわけではない。わたしの主張は正しいとは思うが、厳密に言えば、そのための証拠が不十分である。
 裁判経験が豊富な出版社を相手に、論理的なディフェンスを張るために時間を取られるのは、たまらない。弁明や交渉は、この際は無駄だと思った。最初の二か所は、たしかに、相手方への誹謗中傷になっているのも事実だ。内容は別として、「発言の不適格さは認めざるを得ない」。
 そのように、わたしからお二方には、メールで返事を書いた。

 文藝春秋からの文面は、非の打ちどころのないものだった。勉強にもなったので、後半部分も、そのまま引用する。ブログの読者も、裁判のときや相手の発言を封じるときなど、使えそうな表現である。とても参考になる。

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 (前の文章に続く)

 日本の名誉棄損の判例に基づけば、先生は、以下の点について証明しなければならないことになります。すなわち当該記述について
 
1)事実であること
2)記述が公共性を持つこと
3)真実と書き手が信ずるだけの努力をしたこと
を証明することです。

 すくなくとも、3)について、先生は版元や著者にまったく問い合わせをすることなく、記述をしているわけで、その条件を欠いています。挙証責任は、書き手の側にあります。
 よって、上記に挙げました下線部の当該記述については、ただちに削除していただくよう要請する次第です。

 (中略)

 こちらもあえて、ことを大事にするつもりはなく、だからこそ、著者と担当編集者の名前でお手紙をお書きした次第です。
 十分にご考慮いただき、迅速に対処いただくようお願いする次第です。

 (後略) *この後に両者の署名

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 というわけで、わたしは、前二か所はそのまま削除、最後の一か所は修正して再度ブログに掲載してある。以下では、修正した原稿を再度アップすることにしたい。
 三か所以外には、オリジナルの文章にはまったく手を加えていない。ブログ記事の内容は、そのままである。

 ユニクロと文春との裁判は、この先どう展開するのだろうか? ファーストリテイリング(柳井社長)の主張は、わたしの感じていた「事実認識」とかなり近いはずである。読売新聞でも、そのように報道がなされていた。

 読者の確認作業のために、4月29日の書評を再度掲載する。 (二か所だけは、文春の要求通りに削除してある。)

 
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 書評: 横田増生著(2011)『ユニクロ帝国の光と影』文藝春秋(★★★)←(★★★★★)

 本書を読んでいて、カリスマ経営者と大物政治家について書かれた、ふたつの事例を思い出していた。
 ひとつは、ジャーナリストの佐野眞一氏によるダイエー創業者の中内功氏の評伝である。中内評伝は、続編の途中で佐野氏自身が『カリスマ』を絶筆にしてしまう。わたしは、『日経ビジネス』連載時からの熱心な読者だったが、ある時点からは、佐野氏の取材と公表のやり方が、墜ちた企業家である中内氏に対してフェアでなくなったと感じていた。基本的に、中内氏の多角化事業がきびしくなったところで、続編を書く意味が失われたのだとも推測できる。
 もうひとつの事例は、今回と同じ『文芸春秋』誌上で、ジャーナリストの立花隆が元首相の田中角栄を追及したときの構図である。「田中金脈事件」を取り上げた立花氏と出版社の側には、政治家のモラルに対する社会的な義侠心からの攻撃という錦の御旗があった。だから、首相の犯罪を告発することにより、立花隆も文春も後々に大きな社会的な名声を勝ち得ることができた。
 
 先のふたつの事例と比べると、現役経営者である柳井正氏を取り上げた『ユニクロ帝国の光と影』では、書き手である横田氏の狙いがあまり明確ではない。横田氏の経歴は、海外の大学院でジャーナリズムの修士を取得したライターとなっている。前著では、ネット企業である「アマゾン」に潜入ルポを敢行している。
 文藝春秋編集部の立場についても、同じことが言える。「総崩れの日本企業のなかで、唯一気を吐くユニクロの経営者」をターゲットとして、読者に何を伝えたいのだろうか。出版の意図がよくわからない。
 ルポルタージュとして読んでみると、本書は良い作品である。文章も読みやすい。内容の構成もしっかりしている。ストーリーの仕立て方もおもしろい。
 ただし、一つだけ問題がある。わたしがユニクロについて知っている事実と本書の記述内容が異なっていることである。それは、ある種のレンズを通して、柳井正という対象を見ているからだと感じられる。「見込み捜査」に近いリスクを冒している可能性が否定できないのである。

1 本書の内容と筆者の主張

 ごく簡単に要約してしまえば、本書は、独自の取材に基づき、ユニクロ柳井正の「非情の経営を告発した書」ということになるだろう。表紙カバーの裏に並んでいる、やや長めのコピーが、そのことを象徴している。リード文のいくつかを、内容に対応づけてみる。
 (ユニクロでは)なぜ、執行役員が次々と辞めていくのか(第1章「鉄の規律」)。なぜ、業績を回復させたにもかかわらず、玉塚元一は追い出されたのか(第3章「社長更迭劇の舞台裏)。なぜ、中国の協力工場について秘密にするのか(第6章「ユニクロで働くということ 中国編」)。柳井正の父親による桎梏とは(第4章「父親の桎梏」)。
 これ以外に、第2章「服を作るところから売るところまで」は、ユニクロのビジネスモデルの特徴を歴史的に紐解いた章である。第7章「ZARAという別解」では、「海外の工場と国内店舗の従業員を犠牲にして成長してきた非情な」ユニクロを「国内生産に基礎を置く従業員にもやさしいSPA企業」としてザラに対比させている。
 
 本書のタイトルの通りである。物事にはすべて光と影がある。人間の影の部分と経営者としてのきびしい側面を特別なレンズで眺めれば、ポジティブに見えている現象もネガティブに解釈できる。柳井正という人物に関して言えば、厳しい環境下でも前向きで失敗を恐れない尊敬すべき経営者とみることもできるが、父親の影響下で育ち劣等感をバネに這い上がってきた非情な経営者としてとらえることもできる。
 たしかに、後者の側面がないわけではないが、柳井の人物としての実像は、筆者が書きたい非情の経営像とは違っているように思う。わたし自身は、10年以上に渡って、ファーストリテイリングの成長の軌跡を見てきた。そうした研究者の立場からは、ユニクロの物語を組み立てるために集めた事実に関して、客観的に検証が不十分ではないかと感じるところが多々ある。
 以下では、事実に関する記述について間違っているか、あるいは、単に誤解している可能性がある部分を指摘していきたい。

2 真実が書かれ、伝えられているのか?

 本書のサブタイトルは、「柳井正、非情の経営」である。成功したすべての経営者は「非情」である。非情でない経営者など、世の中には存在しない。物事を成し遂げるために、部下に対してきびしく接するのは、経営者としては当たり前のことである。
 「非情な経営者像」を正しく描き導くためには、経営者・柳井正の言行を、事実に基づいてきびしく検証しなければならないだろう。真実を記述する姿勢とは、(A)取材先と取材日時を明記し、(B)取材対象者から事前に掲載許可を得ることである(名前を出すか出さないかは、それとは別の考慮事項である)。
 それは、書き手としての最低限の作法であり、ジャーナリストとしてのモラルである。すくなくとも、活字で自らの主張を世に問うという行為とは、そのようなものだとわたしは考えている。
 そうした目で本書を眺めてみると、筆者の取材方法について、わたしは大きな違和感をもってしまう。証拠を固めるための手段として、まるで犯罪者を追い詰める刑事のように、筆者(文春編集部)は、犯罪捜査的な手法を用いている。

(1)ユニクロの現地協力工場に潜入し、現場の労働者にインタビューを敢行する、
(2)国内のユニクロ店舗で働いていた元店長や元経営幹部の話を載せる、
(3)柳井社長の肉親の発言やプライバシーを許可なく白日の下に晒している。

 この3つについて、よく読んでみると、(A)「いつ」「誰に」「何を」尋ねたのか、(B)「取材ソースの信頼性」と「事前許可」については、必ずしも明記されていないのである。
 例えば、(3)について指摘すると、第4章に、柳井社長のご両親やご兄弟(姉妹)の話が出てくる(例えば、139~148頁は妹・幸子の話)。いつどこでどのように取材したのかについて、文中には記されていない。あるいは、近所のおばさんの会話(匿名)が、うわさ話として記述されている。筆者は、複数の情報源から情報を集めて、事実に関してクロスチェック(裏を取ること)をきちんとしてあるのだろうか?

 文中に実名が出ている数少ない人物(千田秀穂氏:74歳)もいる。しかし、そうしたひとたちは、柳井社長の下でごく短い時期だけ働いて、すぐに辞めていったひとばかりである。現在のユニクロの経営とはほぼ無縁なひとたちである。名前の出ているその他のひとたちにも、本書の出版では迷惑がかかるのではないのだろうか?

3 現地工場の実態と元従業員たち

 現地工場(1)について言えば、本書の記述は、事実とは明らかに異なっている。わたしは、数年前にユニクロの現地協力工場(上海郊外)を実際に見せてもらったことがある。だから、文中にあるようには、ユニクロが外部の人に協力工場を見せることを拒んでいるわけではない。きちんとした取材意図をもって、信用のおける人物であれば、ユニクロは現場をオープンにしてくれる。
 また、わたしは「確約書」などを提出したことなどない。それは、柳井社長といまのように親しくなる以前のことである。だから、著者が強調しているような「ユニクロの秘密主義」は、事実に反していることがわかる。百歩譲っても、ふつうの企業ならば、大事な調達先が競合にばれてしまうような取材を、簡単に許可するはずがない。
 中国の店舗で取材してときに、ある店の中国人店長が、わたしに細かな数字を教えてくれすぎたことがあった。その後に、本社から注意を受けたらしい。それは、社歴が浅かった彼のほうの瑕疵であって、目くじらを立てるほどのことではない。

 「ユニクロの経営幹部がほぼ全員やめている」という記述も、事実とは異なっている。たしかに、経営の中枢を担う幹部の多くは退社している。中途採用者が多く、出入りの激しい企業ではある。しかし、草創期で成長性が高いチェーン型の小売業は、例外なくほとんどユニクロのような状態にある。ユニクロが特殊なわけではない。
 むしろ柳井社長のほんとうの側近は、この10年間でひとりも辞めていない。その中には、関連事業で失敗したり、柳井社長と一時期は意見が対立した幹部も含まれている。わたしの知る限り、きびしく叱責することはあっても(「口が悪い、いやなやつ」と本人も認めている)、柳井社長が感情で部下を処遇したという事実はない。だから、側近中の側近はみないまでも居残っている。外向けには、出入りが激しく体育会のようなきびしい会社というイメージがついてしまった結果である。
 ここ10年間で、大きく躍進を遂げる成長過程で辞めていった元経営幹部たちが、柳井社長を公式の場で非難したことはないはずである。辞めていく際に、そうした幹部たちに誓約書を書かせたという話も聞いたことがない。これも、根拠の乏しい憶測記事である。
 なお、経営幹部が会社を辞めた場合は、どのような企業であれ、在籍した会社の経営・技術情報を口外してはならない。守秘義務契約を守ることは常識である。だから、ブラトップの開発担当者だった白井さん(元執行役員)が、取材拒否するのは当たり前である。
 「元社員たちの口の堅さ」や「3年間の守秘義務契約を結ばされる」(P.45)などは、ことさらユニクロも特徴的なことではない。世間一般のひとたちは、このように書いてしまえば、ユニクロがものすごい秘密主義で、とても怖い会社だと考えてしまう。

 わたしのゼミ生の中には、ユニクロの店舗でアルバイトをしていた学生が複数いるが、本書に書かれているような店長の話しは聞いたことがない。全店で店長経験者などは何千人もいる。だから、不満を持って辞めた元従業員を取材することはたやすいことである。
 また、何度か就業前のユニクロの店舗で、ミーティングの場面を見ることがあったが、本書にかかれているような職場の雰囲気ではない。第5章「ユニクロで働くということ 国内編」で書かれている労働事情は、描き方が極端である。
 過酷な労働環境と店長にかかるプレッシャーが真実だとしても、それはユニクロだけの話ではない。 程度の差こそあれ、小売りの現場では、正社員もパート従業員もそのようにして働いている。ユニクロの店舗は、むしろモラルが高いほうの職場である。アルバイトも正社員も実に礼儀正しく、動作もきびきびしている。
 中国のユニクロ社員についても、現地のZARAやH&Mの従業員より、実際は作業効率が高い(小川のブログ記事参照)。ユニクロ広報の所作を、筆者はやや非難ぎみに書いている。それは実際に起こったことかもしれないが、本書の書き方(第7章「ZARAという別解」)のほうが、「ZARA公認記事」(実態よりもよく書きすぎている)に堕していることはないだろうか。

4 結論: フィクションとしての柳井像

 いずれにしても、柳井正という人物の個性を、本書は、ある意味でうまく描き切っている。読み物としては、かなりおもしろいのである。しかし、作品が持っている客観性において、わたしの知る限りでは、すべてとはいわないまでも、内容的にはかなりあやしい部分もある。
 皮肉なことに、デフォルメしてある事実が、ユニクロの影の物語をおもしろくしている。真実は限りなくグレーだろうから(自由に解釈する余地が多すぎるから)、厳密には事実の検証はしようがない。その点からいえば、本書は、ノンフィクションではなく、大いなるフィクションなのかもしれない。そして、文春の編集部には、いまをときめく成功者の柳井正を、非情で陰鬱な経営者として描けば、世間の注目が集まるという計算が働いたのかもしれない。この点に関して、本当のところはわからないが。
 最後に、筆者に同意できる点を述べておきたい。最終章(第9章「柳井をやめさせられるは柳井だけだ」)は、全く同感である。ユニクロのアキレス腱は、筆者が指摘している通りである。後継者不在。いまのユニクロについて、誰しもが認める大きな弱点である。そのことを懸念しながら、後継者不在にもっとも苦しんでいるのは、柳井社長本人なのではないだろうか。