リーダーたちの心意気: 「小川和紙マラソン」が19年間も続いた理由

昨日は、埼玉県小川町の笠原喜平町長にインタビューさせていただいた。『しまむらとヤオコー』のご縁である。面談の様子は、小川町の広報誌に掲載される予定である。10時すぎからの約1時間半。小川町の歴史や小川人の気質、ヤオコーやしまむらの昔の話で対談は盛り上がった。


笠原町長は、昭和11年生まれ。ヤオコーの川野会長とも知り合いである。川野トモ元名誉会長を、「おばちゃん」と呼んで、とても親しくしていたらしい。そこで、対談の際に出た、小川和紙マラソンに絡んだ、ある興味深いエピソードをひとつ紹介しておきたい。
 
 2年前(2009年)に、わたしは「小川和紙マラソン」のハーフの部にはじめて参加した。マラソンブームがはじまるかなり昔から、小川町の和紙マラソンは有名だった。連載がはじまるころから、しばしば小川町に来ていたので、取材がてらにハーフへの参加を決めた。
 当日は冷たい雨になった。しかも、スタート地点がなかなか見つけられない。結局、あちこちをふらふら歩いて、荷物を預けて場所をようやく探しあてた。走り出したのは、号砲が鳴ってから1分過ぎ。しかも、スタートラインに並べなかったので、参加者2千人中、最後尾からのスタートになった。
 厳密なゴールタイムは忘れたが、1時間50分がようやく切れたくらいの結果だったはずである。町内を縦断している広めの国道を走路として利用している。走りやすいコース設定である。交通整理もきちんとなされており、住民の沿道からの声援も暖かい。

  『月刊ランナーズ』の読者が選ぶ「全国マラソン100選」の上位に、いつも小川和紙マラソンはランクインしている。「和紙」という名前が付いたレースは、全国でもここだけのような気がする。サクランボや桃、キウイなど、果実の名前を冠したレースは少なくないが、マラソンに「紙」のレースは意外性がある。「小川和紙マラソン」は、レース名のブランディングに成功した事例のひとつである。
 わたしがマラソンをはじめたのは、45歳の時である。いまから14年前である。商業誌チェーンストアエイジで「小川町経営風土記」の連載をはじめるかなり前から、だから、小川和紙マラソンの存在は知っていた。
 小川町は、池袋から1時間半。首都圏で開催される大規模なハーフマラソンの大会の中では、楽々と日帰りができるレースの代表格である。10キロなども入れると、毎年4千人が参加しているらしい。むかしは、「坂戸チャリティ」「浦和マラソン」など、自治体が主催する大規模ハーフマラソン大会が、埼玉県にはたくさんあった。

 人気が高かったにも関わらず、小川和紙マラソン以外の大会の多くは、いまでは開催されていない。参加者5千人規模の人気レースが中止を余儀なくされた理由は、ふたつである。
 ひとつは、交通事情がきびしくなったからである。レースが開催される日曜・祝日に、どの自治体でも、混雑する国道を走路として確保することは困難である。いまでもこそ、マラソンブームになり、神戸、徳島、京都、大阪と、全国でフルマラソンの大会が続々と誕生している。
 ところが、10年ほど前までは、素人が走るマラソンレースのために、3時間以上も国道を通行止めにするマラソンレースの開催には、地元民から苦情が出ていた。住民のマラソンイベントへの協力がなければ、レースは成り立たないのである。
 埼玉県でも、地元の警察署が協力をしてくれないと、、大規模なマラソン大会は維持継続できないのである。そうした事情は、小川町でもおなじだった。
 小川和紙マラソンの第1回大会は、1993年である。県立寄居高校の教員だった笠原町長は、その当時は、埼玉県教育委員会に勤務していた。高校時代に陸上部に所属していた笠原町長は、進学先の中央大学で箱根駅伝に出場したくて、入部を希望したらしい(父親の反対でとん挫)。
 そんなこともあって、小川でマラソン大会をはじめるにあたって、県教育委員として地元警察の説得にあたった。大会開催を側面から支援していたのである。

 今年で19回目を迎える小川和紙マラソンの歴史のなかで一度だけ、開催が困難になった年があった。1999年(第7回大会)である。
 マラソン大会の継続がむずかしくなる二番目の理由は、資金的な問題である。もちろん、自治体からの補助金も出るが、ランナーからの参加費の徴収と地元市町村からの補助金だけでは、大規模な大会の運営はできない。強力なスポンサー企業からの資金援助が必要である。
 第一回大会から、小川和紙マラソンのスポンサーは、地元の有力信用金庫の「おがしん」(小川信用金庫)と食品スーパーの「ヤオコー」であった。それぞれが、毎回100万円ずつをスポンサー費用として負担してくれている。だから、小川和紙マラソンのゼッケンには、「ヤオコー」と「埼玉県信銀」(おがしんを吸収合併)の両方の企業名が入っている。

 1999年に、大会の開催が危うくなったのは、両社からの資金援助が途絶えそうになったからである。この年、ゴルフ場など不動産への投資が失敗して、小川信用金庫は経営的に破たんした。
 また、同年には、スーパーの「いなげや」が小川町に進出。ヤオコーの川野トモ名誉会長は、「せっかく自分たちが小川町のために頑張っているのに、進出を認めたことが許せない」(川野幸夫会長談)と、大会スポンサーを降りると宣言した。
 そのころ、小川町の教育長に就任していた笠原町長は、あせってトモ名誉会長のもとに再考を促すために走った。トモ名誉会長は、「いったん会社として降りることを決めたので、覆すわけにはいかないだろう」と笠原教育長に返答した。その一方で、「もし、ヤオコーがスポンサーに復帰できない場合は、わたし(トモさん)がポケットマネーで援助します」とも言ってくれた。
 そんなわけで、小川和紙マラソンは、両スポンサーの協力を得て、現在でも開催が継続できている。笠原町長は、トモさんの「男気に」すっかり感激して、いまでも地元出身企業のヤオコーに感謝をしている。

 後日談である。笠原町長とトモ名誉会長の間で交わされたやりとりを、ヤオコーの川野幸夫会長に確認したところ、意外な答えが返ってきた。
 「あのひと(母親トモさん)は、なかなかのところがあってね。きっと、笠原さんに、(いなげやさんの件で)ちょっといやみを言ってみたんですよ。ヤオコーが会社として、(和紙マラソンの)スポンサーを降りると決めたことは一度もありませんよ(笑い)」
 笠原町長は、トモさんにすっかりやられてしまっていたのである。でも、小川和紙マラソンのおかげで、わたしのようなランナーは、素晴らしいハーフのコースを走れている。ヤオコーは、地元小川町に貢献できている。
 そして、それから3年後(2002年)に、定年退職した笠原教育長は、小川町の町長選挙に立候補して、当選することになる。