昨日は、SOHO静岡のセミナー(講師)に行くために、麹町(JFMA事務所)から東京駅まで歩いた。約1時間。復旧した東海道新幹線に乗れたのが6時半。この時点で、セミナーはスタートしているはずだった。実際には、セミナーはキャンセルされていた。
せっかく乗り込んだので、東海道新幹線で新横浜までは行ってみた。しかし、のろのろ運転のため、静岡到着は9時を過ぎてしまいそうだった。あきらめて、上りホームに乗り換え、東京駅まで引き返してきた。
ソフトバンクは非常につながりにくかった。というか、東京駅まで歩いている間も、横浜駅から戻ってくる間も、メールも通話もできなかった。
静岡のセミナーも大学の研究室も心配だった。案の定、アシスタントの青木恭子と秘書の福尾美貴子からやっとメールがはいったら、研究室がぐじゃぐじゃだった。
自宅のほうも心配だった。こちらは、二階の本棚がすべて倒壊した。一部は、二階から一階に本が落ちたそうだ。「何もない生活をしているから、わたしの部屋は大丈夫」(青木恭子)。そうか、ものを持たないことは、そんなふうにいいこともあるのだ。妙に納得した。
東京駅9時。そこからふたたび、研究室まで戻ることにした。福尾と青木が心配だったからだ。
自宅は、新幹線を下りた時点で、親類はぜんぶ無事であることがわかった。兄弟(板橋、吉川)と実家(秋田、高砂)も無事だった。関西に住んでいる、むすめとむすこからそのように連絡があった。
大学に戻ると、研究室は自宅と同様に、本棚が倒れてむちゃくちゃになっているらしかった。建物には入れないので、福尾からのメールでそのことを知った。2時45分の最初に揺れた時に、青木が部屋にいるはずだった。青木が帰宅していることは、メールで分かった。ほっとした。
福尾の方は、事務の藤井さんと大学のホールに避難していた。大学に宿泊になるようだった。わたしは、事務の女性ふたり(津田、和田)が残された麹町のJFMAに向かった。男性社員は、3人とも帰宅していた。松島さんは、渋谷経由で歩いて帰った。江川さんと宮原さんは、電車が復旧してから帰った。
小川先生は、京成本線が復旧しないので、麹町どまりになりそうだった。何も食べていないので、和田さんに聞いて、麹町のカレーや、アジャンタに寄った。フィッシュカレー、ナン、タンドーリチキンとプレミアムモルツ。立派な夜食になった。客はほとんどいない。
近くのコンビニも、弁当もカップラーメンも、スイーツさえ、まったく置いていない。店員さんに聞いたが、地震があった直後の3時には、棚がすっからかんになったらしい。5時までには、食べるものは何もなくなったそうだ。めずらしいので、3枚ほど、写真を撮った。開店前の新店の棚のようだった。
「明朝6時の第一便(弁当は一日3便)は、欠便になると本部から連絡がありました」とレジのお兄さん(AM&PM)。隣のローソンも7-11も同様だった。棚はやはり空で、何もない。
今回は、ほんとうに恐ろしい地震だった。わたしたちの麹町の事務所は、ほとんど被害がない。しかし、東京駅まで歩いて、東京駅から大学に戻ってくるときに、歩道を整然とあるている人たちを見て思った。「日本人という国民は、ほんとうに秩序だった民族だな。落ち着いているな」。
申し訳ないが、これが海外での震災だったらと思う。たとえば、罹災した場所が中国だったら、これほど整然とひとびとは行動しなかったのではないか。
日本では、商店での略奪はもちろんない。家路につくために、道端を2~4時間も歩いて帰った友人らがいた。寒いけれど、危ないことはなかったようだ。世界一安全な国で、順法意識の高い人々。そのことには誇っていいと思う。