法政大学が、箱根駅伝に出場できなくなった。原因は、ブログに書きにくいある事情からである。陸上部の復活は、むずかしそうなのだ。正月の2日間、わが大学の卒業生たちは、しばし箱根の楽しみを奪われるかもしれない。低迷の時代が長く続かないことを願う。
運動競技(スポーツ)でも企業経営においても、平等はありえない。市場(マーケット)では、強いものしか生き残ることができない。力のあるものだけが、競技の世界では勝ち上がることができる。
勝負の世界には、平等という概念はなじまない。伸びる事業や花開きそうな才能に注力をして、勝てる試合や儲かる事業にだけ、時間やエネルギーや資金を投じるのは常識である。
しかし、そうでもない組織が、この世の中にはたくさん存在している。
公平と平等とは、別物である。機会について「公平」であることと、処遇に対して「平等」であることとは違う。優れたマネジメント(監督も経営者も)は、参加者に公平な戦いの場を提供するが、報酬に関しては、結果にかかわらず平等に処遇するなど、まずありえない。すべてを救おうとすれば、組織は腐ってしまう。そして、結局は全員が苦しむことになる。
舵取りの責任は、リーダー(GMとCEO)に託される。その指導者を選ぶプロセスが、正しく賢くなければ、いま立派な組織ではあっても、未来への展望を開けないだろう。むずかし課題をいつも抱えながら、いつのときも、組織は運営されている。
「退出(退場)の条件」がきびしい組織は、外側から見れば、過酷で冷徹なように見えることがある。しかし、能力不足や不適格な一部メンバーに、決然として態度で退出を命じられないようでは、組織のモラルが低下する。
パフォーマンス(業績や戦績)とは無関係に、平等に資源を配分すれば、組織は非効率を生んでしまう。すぐに思い浮かんだのは、破綻したJAL(日本航空)のことである。
それは、悲惨な光景だった。
主観が混じっているので、関係者には、不快な思いをさせるかもしれない。あくまでも、以下の記述は、そのときのわたしの気持ちを、正直に述べたものである。
昨年末のことである。JR有楽町の駅前で、ストを控えたJALの労働組合員が、「170名の整理解雇に対して反対を表明する」(ストライキも辞さない)」というビラを配布していた。クリスマスを控えた20日ごろだったと思う。
わたしは、目を伏せて、足早にその場を通り過ぎた。差し出されたビラを、受け取りたくなかったからである。悪いことに、その場所は、年内で閉鎖になるはずの「有楽町西武」の前だった。
破綻した百貨店では、店を閉じたその日から、アルバイト社員は働く場所を失う。失敗した経営の責任を問うことなどない。ただただ、破綻するだけである。
そのことを知っているからだろう。ビラを配っているJAL労組と支援団体の人たちを、わたし同様に、道行く人たちは避けるように通り過ぎていった。ビラを受け取るひとは、ほとんどいない。自分から手を差し出すケースは、皆無だった。
中小企業であれば、破綻した会社の社員がストライキを打つことなど、まさか考えもつかないだろう。JALのパイロットやCAたちは、かつては法外な待遇を得ていたことも、世間の人たちは皆、知っているのである。
「自己責任」という言葉が頭をよぎった。
他人事ではない。いま自分が属している組織でも、構成員をあまねく平等に処遇しようとしている。成果主義を放棄した護送船団組織は、いずれ弱体化してしまう。JAL的な体質(自分たちの組織にかぎって、破綻や解雇はありえない!誰かがどんな方法でか救ってくれる)が、とても怖いのである。
駅伝やアメフト、野球やラグビーの試合で、このところ法政大学はさっぱり勝てなくなった。その根っこのところには、悪しき平等思想が潜んでいる気がする。そして、どこかで愛校心(運動部)を軽視する風潮が蔓延しているようにも思う。
わたしだけの感じ方だろうか。毎年正月には、H大のユニフォームの学生ランナーが、箱根の急坂を昇って降りてくる姿を見ていたい。そう思っている学生や教員、校友OBたちは、駅伝部の復活を待ち望んでいる。このままだと、道はかなり険しそうなのだ。