過度のネット依存への警鐘: iPad、グーグル、ツイッターでヒトは本当に馬鹿になりつつあるのか

 「iPad、グーグル、ツイッターでヒトは本当に馬鹿になりつつあるのか ~米国の著名テクノロジー思想家 ニコラス・カーが語る“ネット脳”の恐ろしさ」という記事が、皮肉なことに「ネット」で配信されていた。


『ダイヤモンドオンライン』(2010年9月22日配信掲載)の記事で、配信は、本日年9月24日(金)である。皮肉といったのは、この記事がオンラインで配信されていなければ、ニコラス・カー氏の「書籍」を見ることが、たぶん数週間遅れていたことである。
 実は、ネット経由ですばやく情報を取得することと、ネットに依存して「頭がパーになる」こととの間には、微妙なトレードオフの関係がある。なんとかと、はさみは使いようなのだ。
 いま、秘書の福尾さんに頼んで、この本をオーダーしたばかりだ。というのは、わたしがふだん考えていることを、著者のインタビューを読む限りでは、この本は指摘しているような気がするからだ。(まだ、書籍は読んでいない。)

  わたしは、ツイッターに否定的である。グーグルやヤフーの検索の利用は、本当に必要なとき以外には使わないようにしている。学生にも、それを言い続けている。著者がインタビューで言っているように、「注意散漫」(言語では、distractionだろう)になるからである。
 つまり、外延部(ある情報を見ているときの周辺の環境)に、開かれた部分(ネットのような情報環境)があると、思考が深まらないからである。関連の情報を求めて、脳が「そわそわ」してしまうのだ。

 図書館で手触り感のある(アナログチックな)資料を探してきたり、店舗に出向いて自分でデータを作ってくる(観察してくる)人間のほうが、おもしろいネタや発見を持ちかえってくる。それは、なぜなのか?
 店舗と図書館では、環境が異なる。しかし、すくなくとも、その場に居る限りは、気持ちが集中した状態になる。片方(店舗)は騒がしい、片方(図書館)は静粛だが、わたしはどちらも好きである。

 自分の思考法で、自分なりの情報が作れる人間に対して、世の中(市場)は、高い付加価値を与える。ネットから得られる情報は、基本的には「浅薄」(あさはか)である。つまり、そうした情報は、ネットの癖(例えば、検索時のソートプログラムの優先ルールなど)に、表示される情報が支配されるからである。
 情報をスクリーニングするときの重要度(注目ウエイト)は、自分ではなく、他の誰かに(商業的な利益動機)に支配されている。そのことに対して、ある程度、情報リテラシーが高い人間ならば、穏やかな気持ちではいられない。少なくとも、わたしの場合は、そんな気持ちになる。
 そうなのだ。学生が提出してくる付属資料を見ても、それがネットからの記事ならば、賢く見えない。知性が感じられない。安っぽく見えるのだ。それは、たぶん、自分でも「ググレバ」簡単に取得できるし、そもそも付加価値が低い情報だからなのだと思う。

  詳しくは、記事そのものをチェックしていただきたいのだが、オンライン記事の最後部分が、わたしにはもっとも印象的だった。
 
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(前略)
 Q ――インターネットを使うな、と言っているのではない?
  A もし私がそう言えば、嘘つきということになる。しょっちゅう使っているからだ。いろいろなことにインターネットは非常に価値がある。危険なことはあまりにも衝動的に使うので、インターネットが思考の普遍的な道具にますますなっていることだ。
 
 Q ――怠けたらだめだということか?
  A その通り。記憶しなければ、考えることができないから、物事を頭に入れないとだめだ。何でも検索エンジンで見つけることはできない。
  考えることが減れば、それだけ検索に頼ることになり、検索に頼れば頼るほど、記憶しなくなる。そうするといつか頭が空(カラ)になる。問題は、自分の頭の中で物事を関連させて考えることをしないと、ますます外部にあるコンピュータベースに、関連することを頼ることになる。われわれの思考の豊かさは自分の脳の中にあるつながりから来るのであって、脳の外に存在するネットワークにあるつながりから来るのではない。
 
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 ポイントは、最後の文章にある。「記憶しなければ、考えることができない」の部分である。人間は、物事を頭に入れないと、結局は思考することができない。
 考えてみれば、すぐにわかることだ。書き取りでは、繰り返してなんどもやらないと、漢字を覚えることはできない。スイングを練習しないと、野球やテニスはうまくならない。
 何でも検索エンジン(とクラウド)に頼るとなると、すべての情報を、脳の外のネットワーク(クラウド)に置いておくことになる。思考を「アウトソーシング」してしまう弊害である。「自分の脳の中にあるネットワーク」(脳の複雑さと豊かさ=自分なりの思考方法)の性能を、結局は失ってしまうことになる。
 数学の公式(ピタゴラスの定理)を覚えていることと、そのロジックを覚えていることは、まったくレベルが違うことだ。公式を再現できる人間こそ、本質を理解している人間である。
 
 比喩的に言おう。わたしたちは、”3つの”思考のためのネットワークを持っている。あるいは、3つの情報ネットワークの中で生きている。すなわち、
 (1)脳内システム(シナプスが連結した脳の働きであり、記憶と思考のエンジンを同時に保有)
 (2)人間ネットワーク(自分を中心とする人と人とのつながり、そこから情報を取得する)
 (3)インターネット(検察エンジンを通した、デジタル情報ネットワークのシステム)。

 (1)と(2)は、自分固有のものである。(3)は、世界が共有している財産である。
 (2)は人間システムなので、接続(アクセス)と情報取得(コンタクト)に時間と手間がかかる。(1)の性能は、個人の能力に依存する。だから、性能をアップする努力をしていないと、どんどん劣化が進む。(1)と(2)には、メンテナンスと性能向上に、いずれにしても手間隙がかかるのだ。
 だから、安直な(3)で、人は有用な情報を得ようとする。何となく、たくさんの情報が入手できた気にもなる。しかし、(3)から得た情報は、豊かそうに見えて、実は、中身が「薄い」(カー氏の書籍の原題は、Shallowだ)。情報取得に、自分でカネをかけるわけではない。自分が努力しなくとも、自然に性能は上がっていく。情報量が増えるから、ROIが高い(そうに見える)。
 だから、自然にほうっておくと、(1)や(2)の方法には、とくに努力を払わなくなる。人間の脳が劣化する契機は、だから、(3)ネット依存症候群に拍車がかかるときである。

 情報的に同質性が高いものばかりが、人間の脳に入ってくると、何が起こるだろうか? 行き着く先は、思考の同質化と情報の同質化だ。ネットの世界は多様性を生み出さないかもしれない。それは、めぐりめぐって、人間や文化の多様性に反する方向で、世界の多様性を劣化させていくかもしれない。
 例えば、地方都市の郊外でよく見かける、町並みの風景と、これは同じ現象ではなかろうか。地方都市の郊外を車で走っていると、その場所が、自分がいまどこを走っているのかわからなくなることがある。店の看板は、全国どこでも同じで、チェーンの名前もロゴもファザードも同じだ。ショッピング゙モールのレイアウトも寸分とたがわない。
 この風景は、自分たちの脳内でも起こっている。独自性を失うのは、ナショナルチェーンの看板に圧倒されてしまった地方商業文化と同じだ。ヨーロッパの商業文化の多様性が実にまぶしく見える。
 そうなのだ。深い思考や情報の独自性に、ネットの世界はなじまないのだ。カー氏の結論は、そんな推論から帰納されているみたいだった。実際に、近々、本を読んでみることにしたい。