昭和35年11月、東日本橋問屋街「孝(たか)ちゃん、美智子、島村呉服店はそのうち店数が増えて100店舗になるからね。最初の店は、松山の町からだよ」 創業時からの住み込み店員だった伊藤孝子(当時、23歳)は、島村呉服店が小川町でまだ1店舗だったころの島村恒俊オーナー(36歳)の口癖を、今でも昨日のことのように鮮やかに思い出すことができる。
妻の美智子(35歳)は、孝子のひとまわり上のうさぎ年。ふたりはよく気が合う姉妹のような間柄だった。恒俊オーナーは、日本橋の問屋街に仕入れに行くときは、仲良しの美智子と孝子を一緒に連れて歩いた。
朝6時ごろに3人で家を出て、小川町始発の東武東上線普通電車が池袋駅に着くのは8時すぎ。東武電車はそのころは木製の床で、急行列車は成増駅の先からしか走っていなかった。電車に揺られながら、恒俊はふたりに向って「いつか100店舗」の話しをするのが好きだった。孝子もそして美智子も、「あら、また若旦那の夢のような話がはじまったわね」とまじめには取り合わなかった。
池袋で国鉄山手線の外回り電車に乗り換えて秋葉原まで。電気街を見下ろしながら、総武線の黄色い電車に飛び乗ってさらに1駅。浅草橋駅で降りて、東日本橋の問屋街まで三人でおしゃべりをしながら歩いた。
「午後の3時を過ぎたら、またこの場所で」。
いつのころからか、これが3人の合言葉になった。横山町にある洋品問屋「エトワール海渡」の隣に、いつも荷物を置かせてもらう洋裁店があった。その場所から、それぞれが前もって決めてあった仕入先に分かれて散っていった。
妻の美智子が呉服と寝具を、恒俊オーナーが服地や肌着やその他の洋服を、孝子は婦人服やブラウス、セーターなどの既製服を仕入れるのが役回りだった。浅草橋から日本橋界隈にかけての現金問屋が主たる仕入先だった。東京ブラウスやシモジマ、エトワール海渡などの大店には、3人で一緒に仕入れに回ることもあった。
松山出店を願望する
買い付けた商品を抱えて、3時ごろには集合場所の洋裁店で待ち合わせた。几帳面な恒俊は、かならず約束した時間の10分前には戻って、ふたりが帰ってくるのを待っていた。唐草模様の風呂敷に商品を包んで、準備は万端怠り無く。背筋をしゃきっと伸ばした恒俊の足の先は、浅草橋駅の方向に向いていた。
集合時間に遅れがちだったのは、妻の美智子だった。
「奥様、また若旦那がかんしゃくを起こしますよ」。
孝子は、おっとり構えているお嬢様気質の美智子が心配でならなかった。厳格な恒俊は、約束した時間を守らないと機嫌が悪かった。言い訳をしたり、口答えをしようものなら、美智子を怒鳴り散らすこともあった。
呉服問屋は、顧客である小売商には親切である。商売で話が弾むと昼食なども用意してくれる。商談が設立するまでは、なかなか放してくれないものである。接客が上手な美智子は、接客されることも嫌いではなかった。
帰りは山手線の内回りで池袋まで戻った。孝子や美智子には荷物がずしりとい重たかったから、東上線の階段を上るのが難儀だった。小川町行きの切符を買って、東上線の電車に乗り込んだ。
東松山駅の木造の駅舎に下りの電車が停車するころには、夕方の5時が過ぎていた。恒俊は、前年から松山の町に店を開くことを考えていたので、「いい物件があったら紹介してほしい」と会計事務所や出入りの不動産屋に声をかけていた。
電車が東松山駅のホームを離れると、車窓の右側には松山町の商店街が開けてくる。東上線の線路と並行している商店街の町並みを眺めながら、恒俊は美智子と孝子に話しかけた。昼間の疲れでうとうとしているふたりには、しかし、恒俊の声が届いていないらしい。
「東松山のつぎは武蔵嵐山、小川町までは駅で2つ。時間距離にして25分。東松山の人口は小川の約二倍はあったはずだよな。松山の店が出せたら、売上も2倍になるかな」。
渥美俊一のチェーンストア理論に傾倒
昭和35年ごろ、商売は順調だった。奥行き5間ではじめた小さな呉服店は、増築に増築を重ねて、いつのまにか奥行きが20間にもなっていた。京都によくあるような「うなぎの寝床」の店の作りである。繁盛店のつくり方はわかってきたので、恒俊の興味は、そのころから多店舗化に向っていた。
商業界セミナーで講師を務めると同時に、読売新聞の記者として「商店のページ」を担当している渥美俊一氏のコラムを興味深く読んでいた。渥美氏が唱える「チェーンストア理論」に恒俊は傾倒していった。セミナーや新聞のコラムでは、海外の小売業や国内の小売チェーン店の動向とともに、チェーン展開に関するさまざまな経営課題が述べられていた。
経営セミナーのテーマと講義項目は、「1店か100店かの定義」「チェーンと標準化」「標準化の条件(成文化、例外のないこと、変更していくこと、・・・)などなどであった。しかし、実態としては、100店舗を越えるチェーン店は、昭和36年時点で日本には存在してはいなかった。だから、美智子や孝子だけでなく、男子店員のリーダー格だった従兄弟の小山岩男(26歳)などにも、恒俊の話は雲をつかむような絵空事としか聞こえなかった。
昭和35年末現在、ペガサスクラブの調査資料によると、日の出の勢いだった「主婦の店ダイエー」(中内功社長)が33店舗、ジャスコの前身「オカダヤ」(岡田卓也社長)が18店舗、関東で伸び盛りだった「イトーヨーカ堂」(伊藤雅俊社長)は5店舗だった。
昭和37年にペガサスクラブが発足してから、中内、岡田、伊藤はスター的な存在だった。恒俊にとって、3人は若手の経営者として、きら星のように輝いて見えた。
「セミナーに参加していても、中内さんや伊藤さんは、雲の上の存在でしたね。美智子や孝ちゃんには100店舗とは言ってはいましたが、一生かかって30店舗もいけばいいほうかな。本音のところでは、そう思っていましたから」。
不動産物件、現る!
昭和35年12月のある日、経理の面倒を見てもらっていた小岩会計事務所が、店舗用の物件を持ち込んできた。その不動産物件は、東松山駅から歩いて約5分のところ。松山町の材木町2丁目にあって、土地の大きさは約50坪。その場所は、いつも車窓から眺めていた通りに面していて、繁華街のほぼ真ん中であった。
恒俊が気に入ったのは、その物件が通りに面した角地だったからである。会計事務所の話では、「地代を払いながら、建物は新築にすればよい」であった。
今でも、しまむらがフリースタンディングで店舗を構えるときの基本の出店パターンである。
土地は更地で、筋向いには武蔵野銀行、同じ通りには丸広百貨店(本社:川越市)があった。そして、それから数日してからのある日、本町通りの隣で店を開いたイタモト洋服店の島田茂店主(40歳)が、恒俊に声をかけてきた。角地の隣が「清月堂」というお菓子屋さんであった。その隣りが空物件になっていた。
「イタモト洋品店も、松山に支店を作るつもりでいるんだが。どうせやるなら、島村んちと一緒に商売をやろうよ」。