マーケティング入門、第二部扉事例(トヨタ自動車、マークXの発売)

現在、高瀬君と執筆中の『マーケティング入門』(日経)には、各部に「扉事例」が入っている。本体のテキストを書いてしまうと、教科書そのものが売れなくなるので、HPでは、事例などを順次紹介していきたい。最初は、トヨタ自動車のケースである。商品企画部の藤本主査のチェック済みである。


第2部 事例「トヨタ自動車、マークXの発売」

 <“Xday”作戦、2004年11月9日>
 2004年10月上旬のある日、全国のトヨペット店全店で、トヨタの新型セダン「マークX」のシルエットとパーツの写真が一斉に展示されはじめた。いわゆる“ティーザ・キャンペーン”である。新しく発売される製品の全貌を一度で明らかにせずに、小出しに少しずつ部分を開示しながら消費者の期待感を高めていくコミュニケーション作戦である。
 バブル崩壊後の10年間、赤字が続いていた東京トヨペット店など、販売店の側もマークXの発売に寄せる期待は大きかった。新車発売のXday(11月9日)に向けて、トヨタ本社側もトヨタ史上最大規模の販売促進キャンペーンを準備していた。イメージターゲットは、40歳代の大企業で働く管理職クラスの男性である。CMタレントには、佐藤浩一が起用された。アッパーミドルクラス層にいる漫画のヒーロー「課長島耕作」を模して、やや鮮度が落ちてきたブランドを若返らせようという意図と思われる。
 「マークX」は、ロングセラーブランド「マークⅡ」(1968年発売)の後継モデルである(写真 初代~9代のモデル)。先行モデルの「マークⅡ」は、当時のベストセラーカー「コロナ」の派生車種として開発された。「コロナマークⅡ」の命名者は、トヨタ自販(当時)の神谷社長。コンセプトは「コロナを超える理想のコロナ」だった。長らくトヨタを代表するラグジュアリーな中型セダンとして安定した人気を保ってきた。2004年時点で、全トヨタ車の中で歴代4位の累積販売台数を誇っている。カローラ(1142万台)、コロナ(545万台)、クラウン(487万台)に続いて、36年間で累計481万台を販売していた(図表1)。
 最盛期の約半分にまで販売台数が落ちたとはいえ、月間4~5千台を販売するロングセラーブランドの車名を変えることには大きな抵抗があったはずである。「10代目マークⅡ」の開発プロジェクトが2001年にスタートしていたにもかかわらず、2003年に大胆な車名変更に踏み切ることになった。この思い切った決断の裏には、セダン市場を取り巻く市場環境の変化といくつかの社内事情があった。
 ひとつめは、セダン市場が縮小していたことである(図表2)。縮小気味の国内市場にあっても、軽自動車とRV系車のマーケットは好調だった。従来からセダンに強みをもっていたトヨタは、両方のカテゴリーにおいて対応がやや遅れ気味であった。ホンダ(オデッセイ、ステップワゴン、CRV)や軽乗用車メーカー各社(スズキ、ダイハツ)の後塵を拝して、1990年から2000年までの10年間でシェアを4.5%も失っていた(図表3)。他方で、マークⅡの保有母体(1.8~3.0リッター)である代替ユーザは頑として存在していたが、将来的にセダン市場が伸びる余地が大きいとは考えにくかった。また、「マークⅡ」とプラットフォームを共有していた三つ子車の「チェーサー」(トヨタオート店→ネッツ店)と「クレスタ」(ビスタ店)を統合して、ヨーロピアンスタイルの「ヴェロッサ」(新ネッツ店)を発売してみたが、こちらはデザインが飛びすぎて実際には売れていなかった(2001年発売以来、月間1000台以下の実績)。
 ふたつめは、チャネル統合が同時進行していたという事情である。2003年に、ビスタ店とネット店が「新ネッツ店」にブランド移行していた。新チャネルでは、後継車種の「ヴェロッサ」を発売していたが、中心車種はヴィッツ、ウイッシュ、VOXYなどであった。女性ファミリー層に狙いを定めたワンボックスカーの投入で、ネッツ店の販売好調だった。そうしたなかで、とくに統合後の新ネッツ店の系列では、市場が低迷している中型セダンより、スモールカーやRV(MPV)系の強化を求めるディーラーの声があがっていた。
 最後に、社内的な事情として、急速に進展している海外展開の影響があった。2000年前半から、トヨタ自動車は、米国や欧州、アジアへの進出を加速していた。4年サイクルでフルモデルチェンジをしながら、国内と同時に海外にも新車を投入していかなければならない。他方で、海外向けの仕様といえども、基本的には国内の開発部隊がモデルチェンジと新車投入を担当する。新車の開発余力はすでに限界に達していた。縮小気味の国内市場で、しかも将来性の見通しが明るくない中型セダンのために、それでなくとも不足している開発工数を振り向けることに経済的な合理性はなくなってきていた。
 トヨタの上層部が中型セダンの車種統合を考えはじめたのは、筆者の知る限りでは1980年代後半のことである。当時はチェネル統合がいまのようには進んでおらず、国内開発チームの工数にも余力があった。しかし、中型セダンの一本化に踏み切れなかった諸条件は、2000年以降では急速に薄れてきていた。

図表1 図表2 図表3