中国へのブランド移転物語(12):上海伊勢丹(後編)

 「チェーンストエイジ」(2004年3月15日号掲載予定)
 2003年秋、伊勢丹が中国に進出してから10年目を迎えた。外資系百貨店が苦戦を強いられるなか、伊勢丹の中国事業は順調に業績を伸ばしている。


伊勢丹が中国に移植した店頭接客技術と店舗管理システムは、中国における高級百貨店の標準型となっている。新宿伊勢丹のオペレーションをそのまま中国に持ち込み、”伊勢丹流”を貫いたことが成功の決定的な要因である。

 <東南アジアから中国本土への進出>
 きっかけは、シンガポール伊勢丹だった。1992年、「上海市旅遊集団」(かていグループ)の董事長が、旅行先の伊勢丹でたまたま買い物をする機会があった。シンガポール伊勢丹の店舗と豊富な品揃え、そして丁寧な店員のサービスにいたく感銘を受けた董事長は、上海に伊勢丹を誘致できないかと考えた。
 旅遊集団は当時、上海市政府の傘下にある官営の旅行会社であった。その後に、同グループは、上海近辺でホテル事業などを大規模に展開している「錦江集団」(飲料分野でキリンビバレッジと合弁)に吸収合併されることになったが、国営百貨店しかない当時の上海市に、伊勢丹のような高級百貨店を持ってくれば成功まちがいなしと感じた董事長の直感には、先見の明があったと言える。
 現在、海外統括部長の岡本 哉氏(当時、国際事業部担当)に旅遊集団から連絡が入り、上海進出についての交渉が始まったのは92年のことである。中国進出は、伊勢丹にとって願ってもないチャンスだった。72年に香港(96年に閉鎖)、73年にシンガポール(現在6店)を開店。80年代に入ってからは、台湾(高雄)、タイ(バンコク)、マレーシア(クアラルンプール)に進出を果たしていた。しかし、中国本土は市場としては有望視されていながら、他の外資系小売業に比べて伊勢丹はやや出遅れぎみであった。
 進出先としては上海が魅力的に見えたのは、上海市が外国文化を容易に受け入れる素地が整っていたからである。「ファッションセンスが先端的な土地柄で、第二次世界大戦前から、上海は着倒れの街と呼ばれていた」(岡本部長)。天安門事件(1989年)の余波は残っていたが、90年代に入ってからは市内に外資系企業の駐在事務所が増えていた。外資系企業で働く若者(男女)の賃金水準は着実にあがっていた。若い女性の富裕層が存在するところ、ファッション志向が強い高級百貨店が成功するチャンスが生まれる。
 上海に進出する2番目のメリットは、香港および台湾との位置関係である。アジアのアパレルの中心地は、いまでも香港である。ファッション衣料の商品企画と大口取引では、香港がアジアの情報起点になる。アジア地区を担当するバイヤーにとって、香港との人的ネットワークの重要性は高い。また、メンズに関しては、台湾との連携を欠かすことができない状態にあった。上海のロケーションは、香港と台北(あるいは高雄)を結んだ三角形の頂点に当たる。
 中国で小売業を展開するには、輸出入権を持った業者を仲介して商品を確保しなければならない。伊勢丹のような大手百貨店でもその例外ではない。台湾のアパレルメーカーならば、対岸の縫製工場から商品を持ってくることができる。上海近郊や香港であれば、周辺の工場で輸出向けに作った商品を、そのまま上海に直送するための輸送経路と施設を確保することができる。商品調達面でのメリットが大きいのである。
 
 <移転基本3原則: サービス教育を重視する> 
 交渉開始から1年後の93年6月、上海の銀座地区と呼ばれる「准海中路」に、一号店の上海華亭伊勢丹がオープンした。当初は、伊勢丹63%、旅遊グループ37%の出資比率での合弁事業であった。中国の法的規制により、商品の輸入金額は資本金の範囲内に押さえられていた。予想以上に売上が伸びたので、そのたびに増資を繰り返すことになった。経営状態が良かったこともあって、徐々に伊勢丹の出資比率は高まっていった。
 一号店の売り場面積は、7,500㎡である。食品と家庭用品を除くフルラインの百貨店ではあるが、実際に買い物をしてみるとやや手狭な感じを受ける。しかし、サービス水準は、日本の伊勢丹とほとんど変わらない。国営百貨店やアジア系百貨店とはちがって、店員はきちんと笑顔で接客してくれる。店員が無駄話をしている場面に遭遇することもない。しかし、上海小売業の14年前を知るものとしては、サービスという概念が存在しなかった国で、進出時の苦労は並大抵のものでなかったことが想像できる。
 「経験がまったくない国で、それでも何とか成功できた秘訣は、(他社のように)名前貸しで商売をしなかったことでしょうね。オペレーションをまるごと現地企業に任せなかったことが、当時だからこそ大事だったのではないでしょうか」(岡本部長)
 中国だからということで、生活提案型のマーケティングを変えることをしなかった。ファッションを大切する顧客の「半歩先を行く」伊勢丹流の経営を貫いたのである。具体的には、以下の3点について、基本ポリシーを守ることにした。
(1)店員向けのサービス教育:
 人事権を伊勢丹側が掌握したうえで、雇用された店員(300~400人/店)には、1~2週間の特別研修を義務づけた。その際、販売実務を習得させるだけでなく、伊勢丹の経営理念や営業方針を現地従業員にも理解してもらうようにした。
(2)店作りと店舗オペレーション:
 売場作りや店舗レイアウトは、伊勢丹が現地に派遣した日本スタッフが決めた。現地化が進んだ現在、日本人スタッフは各店舗8人ずつに減っているが、商品の陳列量については、定数・定量陳列を厳密に守らせている。細かな業務手続きについても、伊勢丹のオペレーションをそのまま踏襲している。
(3)テナントコントロール:
 新宿伊勢丹と同様、中国でも春秋の2回、テナントの入れ替えを実施している。リニューアルにあたっては、入店しているテナントの10~20%を入れ替える。入れ替えの基準は、売上と利益貢献額だけではない。伊勢丹らしい売場を作るために、「商品のつながり」を考慮に入れてテナントミックスを決めている。原理原則は各邦とも区同じである
 前編(2月15日号)で紹介したように、伊勢丹にテナントとして入店できるセンスを持った中国人ファッションデザイナーが育ってきている。また、現地企業のMDと売場づくりを側面から支援する什器設備会社や店舗デザイン会社が成長している。

 <上海2号店も順調に成長>
 上海一号店と天津伊勢丹をほぼ同時に出してから4年後(97年)に、上海の新興ビジネス地区・南京西路に梅龍鎮伊勢丹を出店した。上海一号店が手狭になり、売り場を拡張して顧客の要望にこたえる必要があった。2号店の売り場面積は一号店の2倍(15,000㎡)になった。

 上海2号店は、現地の老舗レストラン・梅龍鎮との合弁事業である(伊勢丹の出資比率80%)。香港の大財閥グループ(ハチソン・ワンポア)が開発したファッションビルへの出店であった。この地区を選んだのは、新たに上海に進出してきた外資企業が、新興の南京西路に沿って建設された高層ビルに入居するようになったからである。そこに勤務する若者が近くに住居を構えるケースが増えてきていた。近隣には、出張ビジネスマンが宿泊する高級ホテル群が林立するようになった。
 図表を見てわかるように、2003年度は、サーズの影響で2店舗では売上が減少している。しかし、梅龍鎮伊勢丹だけは、2002年も売上が落とさなかった。一時期心配されていた従業員の離職率は、現在5%以内に収まっている。賃金面で優遇されているだけでなく、伊勢丹で働いていることが自慢できるからである。接客などについてサービス教育を受けたことが、彼女たちのキャリアにとってもプラスあることが明らかである。
 中国の百貨店事業については、2004年末に大きな変動が予想されている。不確定要素もあるが、中国のWTO加盟により、外資小売業に商品の輸出入権利が与えられる可能性が高まってきている。これは、外資系百貨店にとっては朗報である。直営売場を増やすことができるからである。伊勢丹に関していえば、売場の約95%はテナントに依存せざるをえない状態にある。例えば、シンガポール伊勢丹では、半分が自社直営である。上海でも50%が売場を直営できるようになれば、利益の改善が図れるだけでない。もっとファッショナブルで伊勢丹らしい、先端的ファッションを中国に紹介できるはずである。

 伊勢丹中国(単位:億円)
        00年度 01年度 02年度

上海華亭伊勢丹  30.8  32.2  27.6

上海梅龍鎮伊勢丹 39.5  52.3  54.8

天津伊勢丹    37.7  44.2  41.2