4月1日より、本務校(法政大学)の経営学部長に就任することになった。正式には候補者に選出された段階であるが、就任予定を事前に報告させていただくことにした。
50歳になる誕生日の前日(10月22日)、「生き方を変えて世の中のために貢献することにした」と宣言した。あのときの「世の中」に、学会、業界、世界の3つは含まれていたが、「大学」は入っていなかった。そのつもりの社会貢献宣言であった。
とはいえ、流れに逆らうのは自然ではない。大河の流れに棹さすのは、この場合、かなり無理がある。半世紀を生きたのを期に運命論者になった。偶然ではあるが、故橋本寿朗(教授)の遺志でもあり、この際は学部長を引き受けることにした。
準備がまったくできていないので、仕事上でご迷惑をおかけすることになると思う。本務校の仕事と自分の健康を優先するつもりなので、不行き届きの節はなにとぞご勘弁を。「無責任きわまりない」と各方面からお叱りを受けることはわかってのことである。
とくに、一昨年立ち上げた「日本フローラルマーケティング協会」(JFMA)の会長職については、海外と地方での活動が制限されることになる。また、4月就任予定だった学会誌「マーケティング・サイエンス」の編集長は、就任時期を秋以降に延期していただくことになった。本当に申し訳なく感じている。
組織の長について:「地位は人を作る」。そういえることもあるらしい。
はじめて「長」らしきものになったのは、中学校の生徒会長である。選挙戦にはめっぽう強い。自分が関与して選挙で負けたのは、法政大学の総長選挙(1995年:清成現総長の一回目)だけである。しかしながら、これまで選挙対策本部長として4回闘った法政大学の総長選挙(1995、1996、1999、2002)においてもそうだが、選挙で圧勝したという記憶はほとんどない。いつも薄氷を踏む思いである。
中学校の生徒会長選挙でも、対立候補(友人の青山顕くん)とは数票差であった。青山に勝てた最大の理由は、わたしのほうが、3年生(一学年上)の女子生徒(お姉さん軍団)から絶大な支持があったからある。これには、戦略的に取り組んだ。
直感である。運動期間が限られていた。たしか立候補から投票まで一週間。まんべんなく票をかせぐより、まわるべき教室の場所を絞ったのである。お昼休み時間に、妹の友人を使って、お姉さんたちに集まってもらった。いまでいう「アフィリエート作戦」である。親近感を持ってもらい、クチコミ(バズ)を利用する。女性を征するものが世界を征する。そのときに学ばせていただいた教訓である。いまでも、女性は大切な味方である。
あいさつが苦手であった。生徒会長になったものの、月曜日の朝が苦痛であった。いまでも挨拶嫌いは変わらないが、おかげさまで、今回は、”あんちょこ”の「学部長挨集」を事務の方からいただいた。助かった!(八山くん、ありがとう。)
毎週月曜日に、生徒会長として放送室から「今週の心構え」なるものをしゃべらなくてはならない。まずネタ探しがたいへんであった。それと、生徒会担当の先生とは折り合いがすこぶる悪く、内容や話し方について、しばしばクレームがついた。たぶん本当のことを言い過ぎたからである。世の中には、建前や美辞麗句を言わなければならないときがある。当人はといえば、しかし、そんなことを口に出すことがいやで仕方がない性格であった。要するに、田舎育ちの正直者である。
高校時代(3年生の春)に「一週間の停学」という不名誉な記録が残っている。停学の理由は、生徒会役員(企画部長)として命じられた「学校林の清掃作業」(なんと世界遺産の白神山に学校林があった!)をボイコットしたからである。後で振り返ってみると、中学校のときの教師に対する不信感というのが、後遺症になって影響していたらしい。
その自分が、恥ずかしながら、いまでは教師の立場にいる。学生たちには、あのときの先生たちのように、生徒の考えは圧殺せずに、自由に考え好きなように行動することを許す指導者になりたいと考えている。反面教師とは、よくぞ言ってくれたものである。さて、実際の自分はどうか?
今回学部長に就任するに当たっては、「文句は言わず責任を取れる指導者(長)」になることを目標にしている。現学部長の豊田敬教授は、「急がず、怒らず、大言壮語しない」ことを旨としていた。豊田先生のモットーはそのまま引き継いでいきたい。学部教授会、職員の皆さん、それと生徒諸君も、よろしくご協力をお願いします。