狂牛病騒ぎとNY貿易センタービルの同時爆破テロ事件とは、根が同じである。商品とお金という違いはあるが、ふたつの事件を発生させた基礎条件は酷似している。
それは、取引対象となるモノ(牛と家畜飼料)とカネ(テロ組織を支援する資金)に対して、詳細な取引履歴という「情報のひも」がついていなかったという点である。
いまだに問題が根絶できていない真の理由は、それがカネであれモノであれ、流通過程における取引の不透明さが暴露されてしまうと、きわめて立場が悪くなる金持ちがすくなからず存在するからである。すねに傷を持つ資本家が多くいるために、悪いとはわかっていても、商取引に倫理コードを持ち出せないでいる。それが、一方で共犯者でもあるわたしたちの姿である。
表現をすこし変えてみる。資本主義社会は、「商取引における匿名性」を最大限に尊重することを、これまでは暗黙のルールとして認めてきた。建前上も実際的にも、市場は外から中を覗いてはいけない「ブラック・ボックス」である。最終的に品質さえしっかりしていれば、買い手に迷惑がかからない限りは「ノー・プロブレム」なのである。入手方法が多少いかがわしくとも、商品(牛)がどのような素材(飼料)を使って誰の手によって作られたものなのかについて疑惑があっても、買い手である個人の責任に帰される。取引自体のおかしさは、それが明らかに違法でない限りは、不問に付されてきたのである。その結果、不幸な出来事がつぎつぎに起こっている。実際のところ、作り手の「プライバシー保護」を盾にとった性善説の仕組みが、狂牛病の発生や無差別テロ攻撃という性悪な事件を引き起こしたのである。
ひとびとの倫理観の欠如が、根本的な原因ではない。そうではなくて、商取引システム、とくに、取引情報の開示ルールが問題なのである。病気にかかった牛を追跡する厳格な仕組みを持たなかった日本のような国は、いまや大ピンチに陥っている。それは当然であろう。つい最近まで、日本は食に関しては鎖国状態だったはずである。おかげで、安全性という一点に関して、日本人はずいぶん恵まれた状況のなかで暮らしていたことになる。互いの行動が監視できる高密度な人口分布、食の安全性に関して相互信頼が前提にできるお国柄。監視の行き届いた隣組社会では、商品を全品検査する必要性などなかったはずである。だからこそ、逆説的な食品のチェック体制にほころびが生まれたのである。対照的に、安全なビーフを販売して「漁夫の利」を得ているオーストラリアは、世界中でも人口がもっとも疎な国のひとつである。
ところが、気がついてみれば、日本の社会環境はおおきく変わっている。毎朝電車の中で、わたしたちは、携帯電話の着信音とウォークマンの音漏れに悩まされている。JRや地下鉄の電車の中は、もはや公共の場ではない。切符や定期券を買って、パーソナルな空間を時間借りしているようなものである。若者にとって、電車の車両はお互いが存在を感じる必要がない「非共有空間」である。個人を行動監視することは、そのときにはまったく無意味になる。地域社会や家庭を眺めてみても、事態は同じである。
食を取り巻く流通環境もまた激変している。わたしたちの体内に摂取される食物、とくに、ここ10年間で、生鮮食品がほぼ無条件で国境を越えて流入してくるようになった。そのことに対しては、警鐘が鳴っていなかったわけではない。O157事件、雪印乳業の異物混入事件は記憶に新しい。国境の封鎖ができないグローバル化した経済では、ヒト・モノ・カネのいずれにおいても、「移動の自由」(足跡が記録されない)と「取引の匿名性」(名前が秘匿できる)に制限が加えられなければ、もはや社会的な安全性が確保できない状況にある。これは、経済安全保障以上の深刻な問題である。
それでは、いつ誰がそれを言い出すのか? 悩ましいのは、その一方で、国家や民間企業による個人情報の売買やプライバシー侵害の問題があることである。プライバシー保護と社会的な安全性のトレードオフは、今世紀はじめの人類に対する最大の挑戦である。両者に対して、結局は折り合いがつかないかも知れない。ひとびとのプライバシーが人質に取られてしまう、新たな監視社会の出現を予期することは恐ろしい。