評論家の金美齢氏が、子供の育て方に関して、実にまっとうな議論をしている。小川家の三人の子供たちは、電車では席に座ることができなかった。料金を払っていないのだから、子供には席に座る権利がない。金氏が指摘するように、立っている方が体も鍛えられる。
小川さんちの三人は、そのことで文句を言うことはなかった。
だからではないが、子育てをしている若い夫婦を見ていると、実に子供に甘いのだ。電車の中で騒いでも、注意する大人がいると、反論してくる様なども見かける。「(元気なのだから)そのくらい何よ!」という態度は実に不快である。
空いている席がなくとも、子供のために年寄りに譲ってほしいといった顔をしている。わたしのような元気な年寄りには、実に生きにくい世の中になったものだ。
少子化が進んで、子供が大切なのはわかる。そのような態度をとる親は、「お里」が知れている。そうした「子育てバカ親」のさらにその先にいる親たちは、団塊の世代に決まっているのだ。親たちが子供を甘やかしてきたから、その子供はさらに輪をかけて馬鹿者になる。
金氏の言葉の中で、「わが意を得たり」と思った指摘が二か所あった。
その①: 「はき違えリベラル」の蔓延
「人間はみな平等だから親と子供は対等、教師と生徒も対等の関係であるべき」=「履き違えたリベラル」が子供に植え付けられると厄介なことになる(金氏)。
その通りである。子供は未熟な存在なのだ。人間は平等ではない。社会に出てからそれがわかるのでは、いかにも遅すぎる。基本、子供は訓練中なのである。
なぜこのような「はき違えリベラリズム」が蔓延したかといえば、それは、親の世代は学生時代に、「米国の自由主義文化の洗礼」と「(破壊行為をよしとする)学生運動」を経験しているからだ。米国のリベラリズムは、その背後に人間として責任を背負っていることを前提にしている。しかし、日本に移植されたリベラリズムは、権利の主張だけ(子供に座りごごちの良い椅子!をあてがう)を当然と考えてきた。
戦後民主主義の導入でも、「人間はみな平等だ」という権利意識ばかりがコピーされた。わたしのように、教育の現場にいる人間からすると、社会背景を無視した「思想の複写」は、醜悪にしか見えない。
教育行政や日教組(ゆとり教育の責任者たち)や労働運動の指導者たちの言説は、実にばかばかしく見える。日本の経済的な成功や自組織の頑張りの分け前にあずかっていただけではないのか。
その②: 「平等と公平のはき違え」
学校教育の現場でも、履き違えたリベラルがまかり通っており、生徒に優劣をつけないよう運動会の徒競走を廃止する学校もあるという。これは〝ごまかしの平等〟だ。何ごとも「よく頑張りました」で済ませていたら、社会に出て苦労するのは子供たちである(金氏)。
その通りである。いまの大人の一部(教育者たち)は、理想と現実について子供たちに誤った教え方をしている。親たちからのクレームに対する「恐怖心」(教師側が責任を問われる!)がそれに拍車をかけている。学校教育に対してうるさい親が多すぎるからだ。その結果が、「競争すること」がまるで悪であるような言い方になってしまう。
わたしは子供たちに、「世の中は、不条理なものだ」と教えている。生涯を通して、自分の正当性を貫ける場面などはごくわずかだ。だからこそ、自分の基本的な心構えとしては、「他人に対して公平であれ!身内に対しても平等であれ!」と言っている。
「世の中は平等など」幻想だ。ありえない。金持ちもいれば、貧乏人もいる。美人もいれば、たまたまブスに生まれてしまうこともある。それは運命なのだ。運命を受け入れたうえで、そこからどのように這い上がれるかを考えるほうが生産的だ。
過去を嘆いてみてもはじまらない。わたしたちに、逆転の機会を与えるためにこそ、「競争」がある。それを否定したら、いつまでも、弱者が上に這い上がれない。競争は既成の秩序を破壊するためにある。もてるものに騙されてはいけない。
だから、徒競走(かけっこ)で「同時にゴールすること」を奨励しているような小学校からは、立派な社会人は育たない。オリンピックやサッカーの日本代表は出るはずはない。甲子園や箱根駅伝に出場する選手は輩出できないだろう。
そういえば、2年前のプロジェクト発表会(法政大学イノベーションマネジメント研究科)で、「1位の選手」が6人も出たことがあった。あれには、ひっくり返ったものだ。ベンチャー経営者を育てるためのスクールで、たったひとりの「優勝者」を選べなかったのだった。
競争を否定してしまうと、子供たちは弱く育ってしまう。「負けることの経験」が不足するからだ。そのことは、国際競争社会で「弱い日本」を作ってしまう。現実はきびしい。「平和主義の理念」だけでは生きていけないのだ。
根本的な対策は、競争を否定することではない。たとえ一回か二回負けたとしても、再チャレンジできる機会を社会が準備できるようにすることだ。敗者復活のチャンスを与える同時に、「負けることを恐れない雰囲気」と「敗者にやさしい社会環境」をこそ作ることが大切だ。
「あなたの人生には、きびしい戦いが待ち構えている。世界は不条理に満ち満ちている」。たまたま勝つこともあるが、残念ながら負けてしまうこともある。そのことの結果は問わない。その過程で負けたことに学べて、さらに強くなれれば、それでよいではないか。
金美齢氏のコラムを引用する。
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「金美齢氏 電車で座る子供やベビーカー電車内持ち込みに意見」(にゅーすぽすとせぶん)
2014年8月11日(月)7時0分配信 NEWSポストセブン
このところの日本では、社会的な弱者をめぐる論議が絶えない。「弱者」ならば何をしても許される──そういった風潮もあるが、評論家・金美齢氏は「子供」について、こう言及する。
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近ごろ、電車に乗ると違和感を覚える光景に出くわすことがある。空席があると子供がまずわれ先に座り、親が荷物を持って立っているのだ。満席の車内で子供が「座りたい!」とぐずれば、座っていた大人がわざわざ立ち上がり席を譲ることもある。日本には、「子供を優先して当たり前」という風潮が蔓延しているが、実に偽善的だ。子供は保護すべき存在であっても、社会の主役ではない。主役は大人である。
私は自分の子供が小さいころ、電車で子供を座らせることを一切しなかった。揺れる車内でバランスをとりながら立つことで足腰も鍛えられるし、社会の主役である大人が優先されるのは当然だからだ。
最近は車内へのベビーカー持ち込みも議論になっている。小さい子を抱えて電車移動するのは大変だし、一定の理解や配慮は必要だろう。しかし、それを「当然の権利」と甘えないで、他人様の好意に感謝してほしい。
子供の権利を声高に唱える風潮にも軽薄さを感じる。
「人間はみな平等だから親と子供は対等、教師と生徒も対等の関係であるべき」と言えば、表面的には話の分かるリベラルな大人に見えるかもしれない。ところが、そうした「履き違えたリベラル」が子供に植え付けられると厄介なことになる。「大人に対して対等に物を言える」という錯覚を抱いてしまうからだ。未熟な子供と、長い人生の年月を重ねて、学び、働いてきた大人の意見が同等の重さということはあり得ない。
学校教育の現場でも、履き違えたリベラルがまかり通っており、生徒に優劣をつけないよう運動会の徒競走を廃止する学校もあるという。これは〝ごまかしの平等〟だ。何ごとも「よく頑張りました」で済ませていたら、社会に出て苦労するのは子供たちである。
少子化が進む世の中で、子供たちは甘やかされ大事に大事に育てられてきた。世界的に見ても日本ほど子供に甘い国はない。だが、愛情と甘やかしがまったくの別物であることは言うまでもない。子供がわがもの顔でふるまう社会になってしまったのは、大人が自ら厳しさを封じ込めてしまったからだ。
※SAPIO2014年9月号