食と住まいの原風景

サントリーで「プロント」(昼はカフェで夜はバーに変身する「2毛作経営」)を立ち上げた、本名正二部長(現・花事業部長)と先月昼食をご一緒した。


おもしろい会話を楽しませていただいたので、ご本人の了解なしに(すいません!)、その一部を紹介させていただくことにする。詳しい話は、法政大学ビジネススクールの「マーケティング・ワークショップ」でご本人にお話をしていただくことになっている。11月28日(水)午後18時半~、法政大学大学院セミナー室#401。

本名部長は、業態開発部の課長時代以来(1980年~)、サントリーが関与したほぼすべてのレストラン業態の開発業務に携わってきた。1987年にご自分が一号店を出した「プロント」もそのひとつである。そのほか、シドニーのサントリーレストラン(1980年~、国際部時代)、ジガー(1984年~)、「白札屋」(居酒屋でウイスキー)、「善丸」(ワイン+和食)などの出店にも関わってきた。新業態の店舗デザインを決めるときに、業態コンセプトのイメージをどのように作るかについては、「開発担当者(創業者)が若いときに過ごした土地の原風景と深い関係があるのでは?」というのがふたりのそのときの結論であった。
本名部長は、福島県只見町の出身で高校は会津若松。サントリーでの海外勤務は、2年間のメキシコ生活を皮切りに、オーストラリアのシドニー時代が3年間と長期にわたっている。食と住の原風景は、二つの外国と福島の山間部にある。最後はわたしの勝手な解釈である。

「プロント」は、店作りの基本はイタリア(バール)をイメージしながら、具体的な内装の色使いや柱の文様などは、正倉院(土塀)と平安神宮(鳥居)をモデルにしている。洋風なのに「和」、和風なのに「洋」である。要するに、和洋折衷のデザインと店舗の雰囲気を当初から意識してねらったものである。洋風なのは、飲ませるものがウイスキーだからで、和風なのは、わたしたちが店内で感じる自然な心地よさと関連している。開発者のデザイン意図は、店舗のどこに埋め込まれているのでろうか? メニューは、本名さんの海外生活体験を反映しているだろうか? 是非プロントに出向かれたい。

本名課長(当時)は、白札屋時代の渡邉美樹社長(ワタミフード・サービス創業者)を担当していた。「和民」を成功に導く前に「白札屋」のFCで、渡邉社長は大失敗を経験している。コトの顛末については、「青年社長(上・下)」を読んでいただきたい。渡邉社長が「和民」を作るときにイメージしたものは、大正時代の「カフェ」だったのではないか? というが本名部長の推測である。確かに、ワタミのメニューは和洋中折衷である。サービスのスタイルも無国籍に近いところがある。この点は、今度お会いしたときに渡邉社長に直に聞いてみようと思う。いうわけで、実はレストランなどの業態開発には、地理的な「場所」という軸とともに、どの時代をイメージさせるかという「時間」の軸も重要な要因あることがわかる。今ではなく、しかし遙か昔でもない、適当に懐かしい時代に帰ることで、わたしたちは幸せな気持に浸ることができる。懐古趣味、「レトロ・マーケティング」という概念が生まれるゆえんである。

とりとめもなくなってしまったが、それでは、私自身が心地よく感じる生活の原風景は、どの時代のどの場所なのかを考えてみた。筆者は3歳のときに、母親の実家に預けられた。4人兄弟の長男として秋田の呉服屋に生まれた。母親が働くことが当然の商家である。妹弟が3人立て続けに生まれたので、わたしの居場所はなくなってしまう。秋田県の北部農業地帯、山本郡羽立村の農家で祖母と一緒に約2年間暮らした。伯父が町役場の収入役で、実家は大地主で素封家。葬式や結婚式ができるほどの30~40畳もある広い座敷と高い天井の大きな土間があった。囲炉裏で焼いたジャガイモに稲庭うどん、比内鶏をじっくりと煮込んだ「きりたんぽ」が、わたしの食の原風景である。だから、今でも、大きな大黒柱のある日本家屋で一生を終わりたいと考えている。海外では、その後に2年間過ごしたカリフォルニアの澄んで乾いた風景が好きだが、日本の森の深さにはかなわない。最後は、多少感傷的になってしまったが、皆さんの原風景が、食べ物と住まいの好みに影響はしてはいないだろうか?