【柴又日誌】#236:わたしが大学教授になろうと思った理由

 この話をすると、たいていの人には、「えぇえ」と首をかしげるか、「それって、いつもの先生の作り話でしょう」と言われる。いや、これは本当の話なのだ。先ほど、拙著『社長はつらいよ』の書籍制作でアシストをしてもらっている林麻矢さんに送ったメールである。
 本のアイデアに詰まったときとか、途中まで完成したドラフトを編集する途中で、文章校正のために、ゆらゆらと京成電車に揺られることがある。先ほどは、京成本線で高砂駅から津田沼駅まで折り返して、上野駅まで行ってから高砂駅まで戻ってきた。
 上野駅のひとつ手前の日暮里から、「プロローグ」と「7章のプロット」を構想するための手書きのドラフトを麻矢さんに送った。内容は、事前に光文社の三宅貴久編集局長に送ったメールのコピーである。

  
 麻矢さん。先ほどは行き先は選ばず、高砂駅に入線してきた最初の電車に飛び乗りました。
 さて、津田沼までの往路は、光文社の三宅編集局長へメールを書いていました。本の「途中経過の報告」と、「はしがき」の元になるメモを書いておくためでした。以下が、そのメールです。

 こんにちは。わんすけ先生の日報です。
 三宅さん、体調はどうですか? いまは、電車の中でこのメールを打っています。何度も電車で往復しているのは、時間稼ぎと気分転換のためです。
 本日の午前中は、「プロローグ」を書きました。まだ途中ですが、書く内容の方向は決まっています。三宅さんが命名した「一人称ビジネス書」(ビジネスの展開を巡って、主人公(社長さん)と絡む形で自分(著者のわたし)が登場するビジネス書の新しいスタイル)という言葉の由来を説明してから、この形式で本を書き始める理由を明らかにします。
 
 ところで、高校生のころ、わたしは小説家になりたかったのです。ただし、生まれが商家でしたから、周りは現実論者です。わたしも、簡単に物書きで飯が食えるとは思えませんでした。そこで、学校の成績が良かったので、まずは食べていくために研究者になることに決めました。
 超がつく低血圧だったこともあり、朝早く起きるのが辛かったことも理由の一つです。教員になってからは、午前中の授業は引き受けない方針で、学務課の主任と裏で交渉しました。こういうことを陰で画策する人ですから、わたしはろくでもない人間です。
 
 現役で合格した国立大学は、学費が安くて友人にも恵まれました。大学院に進んで、34歳で大学教授になりました。当時は東京六大学でもっとも若い教授の誕生でしたから、周りの先生たちからは嫉妬の眼差しで見られていました。
 競争相手が少ない分野で、かつマスコミに人気分野の若い教授ですから、取材やインタビューの仕事はこちらから提案すると、ほぼ9割方、その企画が通りました。頼まれて書いた本は一桁(日経新聞と日本実業出版からの数冊)です。
 これまで出版した55冊の本のほとんどは、こちらから企画書を書いて、営業で獲得してきた書籍ばかりです。わたしは、優秀な営業マンだったと思います。今回の本も、ご存知のように、わたしから三宅さんに売り込みを掛けました。
  
 学問分野は、子供の頃に描いていた夢を実現するため、経済学ではなく経営学を選びました。元々が呉服屋の長男坊でしたから、経営学の中でも、自分の肌感覚にフィットするマーケティング・商学分野を選びました。
 小説のネタになりそうな経営者と近づくことができると思ったからです。小説の材料探しだと、初めから思ってました。実際にそうなりました。
 25歳で法政大学経営学部の助手に採用してもらい、30歳でカリフォルニア大学バークレイ校に2年間留学。帰国後してからの13年間で、研究業績はある程度、積み上がっていました。そのタイミングで早々と理論研究からは撤退して、45歳を過ぎたあたりからは、個別企業の事例研究を始めました。
 
 雑誌社と交渉して、商業誌の連載で書き下ろすことをはじめました。『当世ブランド物語』(誠文堂新光社、1999年)、『しまうらとヤオコー』(小学館、2011年)などは、商業誌の連載(『ブレーン』と『チェーンストアエイジ』)を単行本にまとめたものです。書くことは全く苦にならなかったから、最終的にはつぎつぎと書籍を刊行してきました。
 そうは問屋が卸しません。計画通りに出版できなかった本もあります。たとえば、コロナ前まで『食品商業』に連載していた「農と食のイノベーション」は、商業界が倒産したため、単行本化の約束が果たせずに廃刊になりました。
 また、『新潮45』に不定期連載していた原稿6本は、「新書版」での出版のための連載でした。コロナ禍のためでしたが、最後まで連載のドラフトは、新書版の形では日の目を見ることがありませんでした。今回の出版は、そのリベンジになります。
 ただし、連載していた「ローソンがセブン-イレブンを超える日」は『ローソン』(PHP研究所、2025年)になりました。今度の『社長はつらいよ』(光文社新書)は、「「社長の履歴」大研究」という『新潮45』の論考のひとつでした。転んでもただでは起きない2つの例です。
 
 というわけで、この本(『社長はつらいよ』)などはその延長線上にある企画の一冊です。今回も次回作の『ワークマンはユニクロになれるか?』(PHP研究所)も、これまでの人脈を最大限に活用した一冊になります。
 フィールドワークが好きなわたしは、現場が好きでインタビューも企業セミナーの司会なども苦になりません。むしろ人脈を掴むために格好の機会を提供してくれます。
 ところで、冒頭の風景(プロローグ)は、元アスクルの岩田彰一郎社長と大阪駅のコンコースですれ違うエピソードから始まります。、、、
 あー、京成電車が上野に着きます。高砂に戻ることにします。
 長々と書いてしまいました。
 小川より

 <追記> 
 電車の中で、三宅貴久編集局長に書いたメールで言いたかったことは、「いつか作家になりたかった」わたしは、その前段階でもっとも作家に都合がよい職業(「大学教授」)を選んだということです。とくに世間体がよろしいから、大学教授になりたかったわけではなかったのです。
 26歳のときに結婚することが決まっていたので、生まれてくる子供と家族を食べさせるために大学教員になったのでした。それが運よく早めに教授職に就くことができたわけです。それでも、大学教授になったことには満足しておらず、最終目標である「ノンフィクション作家」への遠い道のりを諦めずに、「次のステップ」に行くための準備を着々と始めています。
 そのことを、編集局長にお伝えしたかったのでした。なんというpersistent(しつこい)人生でしょうか。44歳からマラソンを走りはじめたのも、作家になる準備のため(身体と精神を同時に鍛えておくため)でした。
 いまは「短編のエッセイ」を積み上げて本の形にしていますが、いつかは「長編のノンフィクション小説」を書く用意をしています。

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