切り花輸入商社「(株)クラシック」の西尾義彦会長をインタビューするため、千代田区麹町あるオフィスを訪問しました。昨日のことです。昨年、クラシックの社長に就任した息子さんの西尾紀央(きお)さんにも、インタビューに同席していたきました。2時間のロングインタビューの内容は、数カ月先の『JFMAニュース』に掲載されることになります。
西尾さんへのインタビューは、これで二度目になります。最初のインタビューでは、西尾さんが当時、タイの首都バンコクではじめたランの大規模農場の話が中心でした。30年前のことになります。拙著『世界のフラワービジネス』(にっかん書房、1991年)では開発輸入合弁事業を紹介しました。2度目のインタビューでは、タイのデンファレ事業のその後が知りたかったのでした。
ふと話している西尾さんの手元を見ると、拙著の40頁~41頁を開いて、両手の指で押さえています。第2章の「輸入切り花、3つのリスク」という節の始まりの部分でした。
「創業から43年間、いまでも西尾会長が輸入花業界でNO.1でいられる秘訣は?」という質問をした直後です。その答えが、その部分に書いてあったのです。著者のわたしは、なんと29年ぶりに自著と対面することになりました。考えも及ばないことでした。
「(短期的に)儲けようと思わないこと。花は相場で動く、需給のバランスがすべてだ。だから儲けようとすると必ず損をする。損をしないように損をしないように、とやっていけば、結果として儲かる」(西尾社長、当時のインタビュー記録から)
その瞬間に理解してしまったのです。西尾さんは、わたしが30年ぶりに再度、インタビューで訪れるのを心待ちにしていたのでした。前夜はきっと、拙著を隅から隅まで読み込んでくれていたはずです。なぜなら、西尾さんには事前にインタビュー項目(メモ)を送っていからです。
西尾会長は、たぶん30年前が懐かしかったのだろうと思います。事務所へ向かう道すがら、わたしもそんな気持ちで有楽町線麹町駅の階段を昇っていました。事前のメモは、こんな感じでした。
<質問項目メモ>(小川から西尾会長へ、3日前に送信)
タイで始まったランの事業はその後どのように展開していますか?
世界中でさまざまな試みがどのようなきっかけで始まったのか?
クリザールやスクール事業など、人間関係など大変だったのではないでしようか?
西尾さんと拙著のことを、秋田県の地元紙『北羽新報』(2020年7月号)のコラムに書いて、先ほどさっそくゲラが戻ってきましした。しかも初稿ゲラとほぼ同時に、西尾社長からはインタビューの補足メモが送られてきました。
「いただいた全文をブログで紹介してよろしい」と許諾をいただきましたので、複写して貼り付けます。今年で81歳、いまだに日本最大の切り花輸入商社(従業員70名、30年前と同じ社員数)の会長職にあり、なおかつ当時と比較して生産性が2倍になった企業を経営しています。
まちがいなく進化しながら成功を収めてきたわけですが、その成功の秘訣をメールでは3つのポイントまとめて説明してくださっています。わたしへのメールを、そのまま複写させていただきました(2020年7月21日、午後14時ごろ)。
西尾さんの人柄、分析力と実行力をそのまま反映した文章でした。さらに幸いなことは、ご本人のビジネスセンスを継承した優秀なご子息が次に続いているです。西尾会長のお顔が、仏様のように見えました。最後は、余計なコメントだったかもしれません。
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とても、楽しい時間だったので、時間があっという間に過ぎてしまいました。
もっと、お話がしたかったのですが、それはまたの機会に。
国産切り花が99%を占め、切り花の輸入がほとんどなかった時代にスタートした”時の運”、タイミングの利です。早すぎても、遅すぎても今はなかったでしょう。クラシック以前にあった輸入会社も、クラシック以後10年以内に設立された輸入会社は、どこも今は存在していないことからも分かります。
会社設立6か月後に、成田国際空港が開港されたことが、クラシック飛躍の大きな地の利でした。地価が安い成田であったがゆえに、創業13年後に比較的大きな土地を購入し、大型の加工配送センターを建設、拡大する切り花輸入に対応できる大きなハンドリングキャパを持つことが出来たのです。もし、成田が開港せず、あるいは開港が遅れ、羽田が国際空港のままであったならば、羽田近辺に今のような自社大型設備を所有することは不可能でした。
拝