読書感想文優秀者7名分を掲載する。
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『いけばなときもの』を読んで 4年 林 夏菜子
花を愛でる習慣は世界中にあるが、いけばなという独自の形式は日本にしかない。それはなぜか。その答えは、きものという様式が日本にしかないことの答えに通じるのではないか。そこには、いけばなときものに共通する日本ならではのある種の美意識がある。この本では、日本の伝統文化を代表する池坊さんと矢嶋さんが「日本の美意識」について語り合った内容が書かれている。日本人の生活を彩ってきた伝統文化を知識として獲得するというよりは、このような伝統文化に接点のない若い世代の方でも、親しく面白く感じられるよう、会話の中で魅力を伝えている。そして、今を生きる私たちにとっての、日本人らしい暮らしや生き方のヒントを教えている。
「花をいけた人の心のもてなしの心をよく知り、花や器、その取り合わせなどをよく見ましょう。」と。この言葉は、室町時代に池坊さんが著した『池坊専応口伝』に書かれていた言葉であり、いけばながおもてなしの心から生まれたことを伝えている。私はそこに深い意味があると感じた。
いけばなやお茶、きものといった日本の伝統文化には、共通するものがあり、それが「もてなす」ということである。花をいけてもてなしの空間を作る、お茶を点てて客人をもてなす、礼節の気持ちをきもので表しもてなす。どれも自分の気持ちを相手のところに持っていく姿勢がみられる。あくまでも相手が主であって、自分を相手に添わせ、心を配ることなのだろう。
しかし、つい相手の気持ちを考えるより、自分がいかに優位に立てるかを考えてしまうことがある。相手に気に入られたいだとか、好きだと言ってほしいとか、どうしても相手をこちらに引っ張ろう、惹きつけたいと思ってしまう。
先日、友人が誕生日だったためサプライズを企画した。喜んでくれるだろう店やプレゼントを考えながらも、どこかで「自分優位」「自分プレゼン」になっていたのではないか、とこの本を読んで考えさせられた。相手の好みをあまり考慮せずに店を選んだり、自分の特技を披露することがメインになってしまうのでは、おもてなしが押し売りされているような気がする。
本来、日本のおもてなしは、気づかれないように相手に心配りするさり気なさが必要なのではないか。受け取る側が「もしかしてそうなのかな。」と想像するくらいが丁度よいのかもしれない。いけばなも相手への寄り添いの心が必要であり、きものも季節感を先取りしたり、おめでたい文様でお祝いの気持ちを表したりと、相手へ心を運ぶ装いになっているのである。
また、日本の文化には、日本の地理と気候が大きく関係しているという話があったが、日本人というのはやはり、季節に敏感な民族である。毎年、家の向かいの小学校の桜が咲くと、「ああ、春が来たな。」と感じる。桜が散ってしまうと、「また来年の楽しみだね。」とよく聞くけれども、そこには季節が巡っていくことに対する感謝と、いく花を惜しむ気持ちが込められている。つぼみを待ち遠しく見上げ、咲き始めたら風や雨で散らないように祈り、桜吹雪にうっとりし、葉桜の初々しい緑に十日前の満開の桜を思い出す。
このように季節の移ろいを肌で感じながら、落ち葉や枯れた葉、まだ硬いつぼみを愛おしく思うのも、日本的かもしれない。
しかし、今の世の中は、どれだけ速くするか、どれだけラクにするか、何か効率よくすること自体が目的になってしまっている。カードをかざせばものが買えて、電車に乗れて、クリックすれば翌日には荷物が配達される。そして、テレビでも映画でも、自分の見たいときに自分の都合で見られる。
分刻みのような生き方、少し都会に疲れたなと感じた時こそ、一度肩の力を抜き、日本の伝統文化に触れてゆっくりとした時間を過ごすのが良いのではないか。いけばなやきものやお茶などの伝統文化は手間や時間がかかるが、そのプロセスが楽しいし、そのゆっくりとした時間というのが喜びでもあり、人の心を豊かにする力がある。
文化に触れようと思わなければ、接することのない時代になってきているのか。私はそうは思わない。自分たちの暮らしをまず見直して、八百屋さんで旬の野菜を買ったり、ご近所の植木に目を向けたり、玄関に花をいけたり、季節ごとに衣替えをしたりすることも生活文化であり、そういう身近なことから始められたら良いのではないか。教科書を開いて理屈を学ぶことも大事かもしれないが、本当は身の回りの生活の中で引き継がれていくのが文化だと感じる。そして、日本の文化は言葉で語るより、実際に見たり、触れたり、感じることで分かち合えるのではないか。
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『いけばなときもの』を読んで 4年 安藤 絵理子
私がこの本を読み強く感じたことは、既に聞いたことや見たことがあった日本文化の言葉やものの由来、成り立ち、時代背景などを知るのはおもしろいなぁということです。
例えば、松・竹・梅といった植物が縁起の良いものとされている理由です。普段から松竹梅と言う言葉を耳にすることはあっても、どうしてよいとされているのかを知る機会はなく、また気になったこともありませんでした。この本を読んだあと、母にも知っているかと聞いてみましたが分からないと返ってきました。このように、昔からあり私たちにとっても身近な日本文化の言葉の由来、また行為の意味を知らない人は結構多くいるのではないかと思いました。
この本を読み終えた後、私は日本人として日本文化のことは知っておかないとなぁと思いました。また、若い世代として日本の伝統文化に馴染み、将来、自分の子どもや孫など下の世代にも伝えていけるようになっていたいと感じました。
ここからは、本の中で特に印象に残った部分やおもしろいと感じた部分をその理由と共にあげていこうと思います。
一つ目は応仁の乱に関することです。本の中で応仁の乱が所々キーワードになっていますが、まず驚いたのは京都では「先の戦で焼けて」というと応仁の乱のことだったりするということです。私の中では、ずいぶん昔に起きた歴史上の事柄の1つでしかありませんでした。本書の言葉を使えば、今を生きる自分とは関係がない「独立した過去」だと思っていました。しかし、いけばなもきものも応仁の乱の後に発展したという背景などを知ると、現代につながっているのだなと感じることができました。
二つ目はいけばなに関するあれこれです。まずいけばなのルールについて、いける総本数を奇数にするとありますが全く知りませんでした。これからも植物が伸びて展開していくというプラスの概念を奇数に込めているそうです。この本を読む前はいけばなをやろうと思ったことはありませんでしたが、こういったルールの意味などを教えてもらいながらやるのは楽しそうだと興味を持ちました。
本書ではいけばなについて、海外のフラワーアレンジメントと何度か比較されていました。日本のいけばなは花だけではなく、草や木や枝また枯れ葉などとともに花の美しさを愛でるとありました。これは日本独特の美意識だそうです。我が家では最近母が家中の模様替えをしていて、どんな風にするかを悩んでいました。そこで私は母に、以前アメリカでホームステイした家はドライフラワーなどが飾られていて素敵だったと写真を見せました。その結果、今家には花瓶に挿したドライフラワーが飾られています。それも良いとは思うのですが本書を読んだ後だと、花を草や枝とともにいけるいけばなが家にあるのも、四季が身近に感じられてよいなと思わずにはいられません。
三つ目はきものの柄に関することです。私も見たことがあった「辻が花」の文様は、実在しない花だったということに大変驚きました。「辻」が十字路で、十字は東西南北の空間軸だけでなく、過去と未来を行き来する時間軸でもあるという哲学的な解釈があるそうです(『君の名は。』を思い浮かべました)。また家康がこの文様は秀吉のイメージが強いからと禁止したため、わずか20年くらいしか作られなかった話もとても興味深かったです。ただのデザインの1つではなく、こうした歴史のエピソードも知ることができる着物に興味を持ちました。
以上三つが特に印象に残った部分です。最初にも述べましたが、私はこの本を読んで、日本文化の言葉の由来や行為の意味を知れたのが、とてもおもしろかったです。また日本の伝統文化に馴染み、それを将来自分の子どもなど下の世代に伝えていけるようになっていたいと感じました。現在においても、自分を含めて周りの若い人たちがこういうことを知れる機会があればいいのにと思いました。私は現在カインズ班でフィールドワークを行っていますが、実は後期活動内容に門松などお正月のお飾りを取り上げるのはどうかという話が出ています。実施する際には、この本を読んだ経験をもとに企画や売り場案を考えていきたいなと思います。
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『いけばなときもの』を読んで 4年 山下 祐一郎
今回、本著『いけばなときもの』が課題となり読み進めている中で、一つ重要なことに気付きました。それは、私自身これまでいけばなと着物についてしっかり学んだり体験したりしたことがないということです。日本には着物やいけばなの他にも、俳句や短歌などの言葉の文化や三味線や琴などの音楽の文化、その他にも書道や茶道などの多くの伝統文化が存在しています。その中で、俳句や短歌と書道は、小学生や中学生の時などに国語の授業で学んだり、課題の一つとしてコンクールに応募したりした記憶があります。また、三味線や琴も音楽の授業で、茶道も家庭科の授業で触れ、能や狂言についてもビデオ鑑賞をしたことがあり、少し触れたことがありました。しかし、着物やいけばなは体験したこともなく、周囲に嗜んでいる人もいなかったので、ほとんど知識がなく、遠い存在でもありました。
本著『いけばなときもの』は、華道池坊の時期家元である池坊専好氏と株式会社やまと代表取締役会長でありきものに造詣が深い矢島孝敏氏が対談形式で、花や着物を切り口に日本文化について論じています。本著を読む中で、これまで少し遠い存在であった伝統文化というものがより身近により新鮮に感じられ、面白く感じられました。そこで、印象に残った点を二つ紹介していきたいと思います。
一つ目は、「数少なきは心深し」という言葉です。本著の中で、池坊氏が海外の家に行くと、「代々受け継がれた家具に囲まれて、壁には絵画が飾ってあってお花もやはり華やかに飾られています。そのスタイルは変わらないことに価値がある」と書いてあります。この価値観の違いは、日本に四季があることに由来することが考えられます。また池坊専永氏の「最低限の物や動きから最大限の効果を引き出すことを好む」という言葉も載っています。確かに、いけばなは少ない草花で構成されていますし、禅の精神にも共通する点があります。
ここで、私はある光景を思い出しました。それは昨年訪日したサウジアラビアの副皇太子と天皇陛下の会見が行われた御所の一室の写真です。その写真は、何の飾りもない、草花をいけた花瓶が一つあるだけの部屋で、天皇と副皇太子が言葉を交わしている場面を撮っています。しかし、障子から差し込む明かりと花瓶の花と人とが、美しく気品のある空間を作りだしています。これこそが、最低限の物から最大限の効果を引き出すということ、「数少なきは心深し」を表しているのではないかと思い、強く印象に残りました。
二つ目に、四季の移ろいを愛おしむ文化が日本人には染み付いているのだと感じました。日本には、春・夏・秋・冬の四季それぞれの風景があり、野菜や果実の旬を感じながら生活することができます。池坊専好の立花新風体という作品の中に、色変わりした葉を「枯れた」と捉えず、「枯れゆく」と捉えるという、その移ろいに趣を感じるという見方をした作品があり、これこそが日本の自然や四季が持っている美しさや風情を存分にあらわしていて、感動を覚えました。
いけばなは、その存在一つでその空間の雰囲気を作り出すことができます。これはきものに共通していると感じます。本著にも載っている慶長小袖や桃山小袖には、草木や動物など自然の文様がかいてあり、きものからも季節や風情を感じることができるのはとても素晴らしいことだと感じました。
現在、生活の中で一年中野菜や果実が出回っているために、旬が感じられなくなっているということも含めて、日本人として美の感覚を忘れないようにしていきたいと思います。
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『いけばなときもの』を読んで 3年 慶野 夢
本書は、二人の対談がそのまま文章になっている斬新な形式で、実際に目の前で会話が繰り広げられているように感じられた。また、随所に生け花や着物の写真や資料が掲載されていたためより深く内容を理解することが出来た。
私は「いけばなときもの」という題名からも筆者達が伝えたい想いが込められていると思う。通常なら「生け花と着物」という風に漢字で表記される事が多い。しかし、あえてひらがなで表記する事によって音の余韻や余白を楽しむ事が出来るのである。
生け花と着物、それぞれのスペシャリストである池坊専好氏と矢嶋孝敏氏(以下池坊氏・矢嶋氏と呼称)が、それぞれの視点で日本文化の良さを説いていてとても感銘を受けた。
私自身、高校生の時に弓道部に所属し、現在は着物を扱うアルバイトをしているため、本書の内容にも通じる点が多々あった。
弓道も日本を代表する文化である。袴を着用し、所作や動作が一つ一つ決められており、一連の流れが少しでも乱れたら矢は的に中らない。何かを考えたり意識するよりも自然体でいる方が射形が綺麗であったり、弓道の面白味を感じる。また、弓道を行うことによって、普段の忙しない日々を忘れ、じっくりと自分に向き合う事が出来た。
これらの文化に共通しているのは、やればやる程奥深さが出る点である。これらは細かいルールが多く、代々受け継がれるものという堅苦しいイメージがあるために疎遠されがちである。しかし、一度始めるとシンプルであるが故の楽しさに気づき、そこから徐々にそれ故の難しさに魅せられるのである。
本書を読んで驚いたのは、私のような若者たちが近年日本文化に強く興味関心を寄せている点である。本書の言葉を借りると、「文化」よりも多く「文明」に触れている世代の人達が、である。確かに近年「歴女」と呼ばれる歴史が好きな女の子達が増加しているとニュースで耳にした。私自身も趣味は御朱印巡りであり、すみだ北斎美術館の年間パスポートを所持しているので、傍から見れば歴女なのかもしれない。
その私が分析すると、第一に日本文化に対するリバイバルブームが起きているのではないか、と考える。戦後からのアメリカ文化導入によりたくさんの物がアメリカ様式に変化した。例えば着物から洋服に、生け花からフラワーアレンジメントといった風に、である。私たちの世代は生まれた時からアメリカ文化に触れているため抵抗なく受け入れて生活している。日本文化が生活の一部ではなく自ら踏み込まないと触れる機会がないからこそ惹かれるのではないか、と考える。
第二に、日本文化が年月を経て多様な方式や新しいあり方を開拓した点にあるのではないか、と考える。本文で矢嶋氏が述べていた、着物の着付け体験を1回500円で行える事などが具体例として挙げられる。このような活動が日本文化をより身近に感じられ、以前よりも手軽に始める事が可能になったと考えられる。
本書で取り上げられているのは、主に日本独特の文化や感性である。代表的なのは「侘び寂び」である。私達日本人には、両手一杯の花束よりも道端の一輪のたんぽぽに目を奪われる事がある。そのような経験を作品として創造するのが生け花なのではないか、と私は考える。本書で池坊氏が述べていた花を活ける上で余白や七五三でバランスをとることが大切なのも、日本人の感性に深く根差しているからであると感じた。
また、寄り添うという単語を本文で何度も目にした。現代では相手の意見に合わせる事が減り、代わりに自分の意見を押し通す事が正しいと認識される事が多いと感じる。男女平等が謳われて、共働きの家庭が増加したのもその影響であると思う。しかし、相手に寄り添い、思いやることや相手が気づくかわからない気遣いの美徳の素晴らしさを改めて知ることが出来た。
私たちが昔からある着物や生け花という文化に触れる事が出来るのも、何万人規模の人々が文化を大切に継承してきたからである。それを踏まえて、私らしく日本文化を学び楽しんで、次の世代に受け継いでいけたら良いな、と感じた。
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『いけばなときもの』を読んで 3年 山崎 大
本書を読んで、いけばなときものに対する私の意識が変わった気がする。これまでの私のイメージでは、これらは日本独自の文化で年配の方が嗜むものだった。しかし、本書を読んでいけばなときものにはそれ以上の何かがあると感じた。私たちの生活に寄り添い、自分自身が生きていると実感させてくれるようなものであると思った。
まず私が驚いたのが、いけばなは仏様に花を供える仏前供花という風習の時代から存在しているということである。この時代は、聖徳太子が六角堂を設立した587年頃である。つまり、1000年以上前からいけばなは存在していたのである。仏前供花は花によって仏様の魂を慰めるということであり、いまの言葉で言うとおもてなしするである。
私たち日本人には、みなおもてなしの心が存在すると私は思う。これは、私がこれまでの人生で感じてきたことであると同時に、私自身もしてきたことである。現代では、おもてなしを昔ほど感じることが難しくなってしまったが、日本にはおもてなしの心がたくさんある。
例えば、友人を家に招待した際に私はおもてなしをしてきた。私は中学生と高校生の頃に、よく自宅に友人を家に招いてお泊まり会をしていた。その際に、母親と一緒に夕食を作ったり、ゲームなどを用意して友人に対しておもてなしをしてきた。また、私自身がおもてなしを感じたのは旅先で行った旅館である。私は新潟に家族旅行に行き、小さな旅館に泊まったことがある。そこに泊まった際、料理はもちろん部屋の準備など何から何まで気にかけてくれた。また、旅館周辺の案内もしてくれて、地元の人しか知らないような観光地を教えてくれた。私はその時とても気分が良かったのと、また来たいなと思ったことを今でも覚えている。
きものは、着る人に寄り添い次の世代また次の世代のように二代、三代と世代を超えて着られていく。
私にもこの様な経験がある。私の父の祖父母はきもの屋を営んでいた。なので私の家には、父が成人式で着たはかまがある。私は成人式の前にそのはかまを着させてもらった。そのはかまを着た父親の写真と自分を見比べると、全く別のきものを着ている様に感じた。父親と自分の体格の違いや、時代が違うので写真の質感などはもちろん違うがそれ以上に違って見えた。
本書にもあるように、きものは着る人に寄り添いそれぞれの着方によって着られていく。きつめに着たり、緩めに着たり人それぞれの着方がある。そして、同じきものでも着る人によって全く別のきものに見えることもあるのである。
いけばなときものが古くから日本で愛されていたのには、日本の四季が関係していると私は思う。日本では一年という月日を、風の気配や、肌で感じることのできる湿度、木の葉の色合いなどで季節を感じることができる。また同じ季節でも、数週間経てば変わってゆく。夏を例にすると、初夏があり、梅雨がって、盛夏というように天候や気温が違う。
私は季節が移りゆく時に、悲しい気持ちになることが多い。今この文章を書いているのは9月の中旬で夏から秋に移りゆく頃である。夏の楽しかった記憶などを思い出し、また1年間夏は来ないのかという気持ちになる。しかしそれは、夏が終わると同時に秋がやってくるということである。秋には美しい紅葉や、食欲の秋というように美味しいご飯を食べることができる。
日本では、その季節に合うきものを着たり、その季節の花をいけたりして四季を感じてきたのだと思う。それは、日本でしかできないことであり、愛されてきた理由なのではないだろうか。
本書を読み終えて、これからいけばなときものに触れていきたいと思った。私は旅行が趣味で海外に行くこともあるが、もっと日本の文化について知りたいと思った。自分の国の文化を、他国の人に説明できるようになりたい。
また、現代はインターネットが普及したり手作業の自動化が進み便利になったが、失われたものもあると感じた。それは、作業をする過程のストーリーである。いけばなときものでは、丁寧に着る、気持ちを込めていけるという過程である。同じきものを着るにしても、毎回同じようには出来ないし、失敗を繰り返して成長していく。この過程のストーリーが大切なことであり、現代では失われていると感じた。
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『いけばなときもの』を読んで 3年 倉持 宏明
いけばなときものは、日本の伝統的な文化の中でも象徴的なものだ。現代の生活の中であっても、いけばなやきものがその空間にあるだけで、雰囲気が変わり、人々のこころは安らぐ。日本の文化は、そうやって現代にうまく伝えられている。本書は、いけばなときものの伝統を引き継いでいる矢嶋さん、池坊さんの2人が、日本の伝統や美意識について語り合っているものとなっている。
その中で、印象的に残っている言葉がある。「一期一会」だ。2人の会話には、この言葉が何回も出ていた。一期一会について言葉の意味を調べてみると、簡単に言えば「一生に一度だけの機会」。一期一会はよく知られている言葉でもあり、言葉の意味を知っているかと聞かれれば、大体の人は答えられるだろう。
しかしこの言葉を、実際に身をもって理解している人は少ないのかもしれない。本書を読んで、私はなんとなくそう感じた。一期一会をいけばなで例えると、いけばなをするにあたって関わる人に対して、生ける花に対して、そして同じ空間でのひと時を分かち合えることに対してのお礼である、というような内容が本書に書かれていた。私が思っていた一期一会は、出会った一人ひとりに対して感謝を持つといったようなものだ。しかし本書を読んでからは、単に関わった人だけではなく、モノや生き物、そして空間や雰囲気すべてとの出会いに対してのものなのではないかと感じた。
一期一会にはそのような本質があるからこそ、ゆっくりと流れる時間を大切にする日本の文化が作り上げられたのだと考えることもできるかもしれない。いけばなやきものもそうだが、庭園やお寺、鹿威しなどの細かいところまでも、その空間の雰囲気を感じ、時間をゆっくり感じられるものとなっている。現在の京都には、そのような文化が最も詰まっている場所だ。京都の観光スポットであるお寺や庭園では、時間に追われている人はほとんど見ないだろう。みんな、その空間の雰囲気を感じたいから、ゆったりとした時間を過ごしたいから来る人がたいていである。
実際、私は京都には2度行ったことがある。1度目は中学の修学旅行、2度目は大学生になってからだ。中学の頃は、行事であったから友達とどこかに行くのが楽しいという感覚でしかなかった。だが、自主的に行った2度目は、自分で行きたいところに行き、ゆっくりと1つ1つの場所を観光することができた。その旅行は、いつもと違う雰囲気を感じられ、自然と時間をゆっくりと楽しむことができる旅行となった。日本の文化には、ゆったりとしたひと時を楽しむことができる要素がつまっている。だからこそ、外国にはない雰囲気の日本の文化に感銘を受け、やってくる外国人も多いのだと思う。
そのような文化ができた理由として、一期一会のほかに、日本の「おもてなし」の精神が要因の1つであると思う。「自分の気持ちを相手のところに持っていく姿勢。自分を相手に添わせ、心を配る。」というのが、もともとのもてなしの精神であると本書には書かれていた。それは心に余裕がないとできるものではなく、時間をゆっくり楽しむことができる日本であるからこそ、生まれたものなのではないかと感じた。
おもてなしと聞いて、思い出したものがある。天皇陛下とサウジアラビアの副皇太子の面会した部屋が、一時話題になっていた。その部屋は、装飾は草花を生けた花瓶が1つあるだけの、気品漂うシンプルな部屋だった。他の国の面会部屋と比較すると、日本とは違い、いろいろな装飾が飾られてある部屋となっている。これが海外から絶賛の声が上がっていたのだ。日本の面会の部屋がこのようなシンプルな部屋となっているのは、無駄なものは取り除き、相手が落ち着くことができるようにするための心遣いがあるからこそである。この空間は、日本の伝統が生んだおもてなしの精神によるものにほかならない。
最近よく、日本人は外国と比べて大人しい、控えめなどと言われているのを耳にする。たしかに現代の社会では、大人しい、控えめとは対照的な人のほうが成功しやすいのかもしれない。しかし、逆にその特徴は長所でもあり、いいところを挙げてみると、礼儀正しい、真面目など日本の文化の影響が少なからずあるように思える。私は、日本の文化や精神の名残が時代や形が変わっても、少しでも現代に残っているのを素晴らしいと思う。
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『いけばなときもの』を読んで 3年 大川 真奈
いけばなときもの。このタイトルを見て真っ先に思ったのが、どちらも日本の伝統文化である、ということだ。
しかし、伝統文化であるにもかかわらず、私自身、いけばなもきものもよく知らない。きものは浴衣や、振袖という形で触れたことはあるが、いけばなは今まで一度も体験したことがない。
本書を読む前、いけばなは、日本文化の歴史として教科書の中で習うだけで、いけばなと聞くと、決まりごとが多そうで敷居が高いという印象であった。
どちらも他の国にはない誇れる文化である。日本で生まれ育ってきたが、文化にあまり触れていない事実に恥ずかしさを感じた。海外の人に自分の国の文化を紹介できないことは、非常に悲しく、残念である。本書を通じてもっと積極的に、文化に触れてみたいと思った。
以下、いけばなときもの、それぞれ印象的に残った内容を書いていく。
「形より姿」。この言葉には、花と向き合うには、花の“出生”や、あるがままの性質、姿を理解し、こちらが謙虚でなければならない、という意味が込められている。花にも人間と同じように、どういう育ち方をしてきたのかという「姿」があることを再認識させられた。
いけばなを習ったことがない人は多いと思うが、“花”は誰もが幼いころから見て触れているであろう。私自身、お花は幼いころから身近に存在していた。母はガーデニングが好きで、家の中や外には常に、季節ごとのお花があったからだ。幼少期、母と一緒にお花を育てて、その成長をみるのが楽しみであった。それと同時に、雨や風に打たれても強く生きようとする花の姿に、感動したのを今でも覚えている。
花の生い立ちを知ることで、自分たちは、自然の恩恵を受けて生きていることを知ることができる。そして、人間がどう自然と向き合ってきたのか、関わってきたのかを学ぶ時間を与えてくれるのは、まぎれもなく、いけばななのだ。
自分の目で見て、触れて、感じること。形として見えるものだけでなく、背後の気配を感じ取ること。いけばなにとって大切なことであるが、私たちが生きていくうえで、通じるものがあると思った。
「一期一会」。語源の由来は、「茶会に臨む際は、その機会を一生に一度のものと心得て、主客ともに互いに誠意を尽くせ」といった、茶会の心得からきている。本書でお二方は、日本の文化は一期一会の心で成り立っている、と表現していた。花をいける際には、礼が欠かせない。それは人に対して、植物に対してである。いけばなの礼には感謝の心、一期一会の心が含まれているのだ。
きものも同じ。きものを物質化してみていると、そこにあったはずの命を忘れてしまう。糸の元である繭、染料で使用する草木、きものを手作業で織る人…。一つのきものには、関わったたくさんの生命が存在していることを、私たちは忘れてはいないだろうか。食べ物を食べる際、「いただきます」と言うのと同じように、きものに対しても、感謝の気持ちを常に、持っていなければならない。
つまり、結果だけをみるのではなく、それまでの過程や、見えないものこそが大切なのだ。
これもまた、私たちの生き方のヒントになっていると思うと、日本文化は非常に奥が深いと感じる。
「もっと身近な生活文化として」。冒頭で書いた通り、いけばなもきものも、日本の伝統文化にも関わらず、どうしても敷居が高いと避けてしまう。昔は家の中にあったものが、今では習わない限り接する機会がない、というのが現状である。しかし最近では、金曜の夕方や土曜にいけばなのレッスンが受けられることや、ワンコインきものレッスンというものが行われているそうだ。こんなにも気楽に習うことができるとは思っていなかったので、伝統文化に触れてみたい気持ちが、より一層強くなった。
本書を読み終え、いけばなときものに通じる日本の美意識を知ることができた。それと同時に、さらに日本という国が好きになったし、海外の人に日本の文化を知ってもらいたい、そう思わせてくれた一冊である。